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「おいっ、大丈夫なのか!?」
「蓼巫女様はお眠りあそばしているだけです」
ゴルドーは扉のすぐ近くで膝を折り、それ以上近寄ろうとはしなかった。
肌を焼く空気が苛烈な神気であると気がついたのは、水面に広がる波紋を見たときだった。聖水に沈んだ蓼の巫女の指先が揺れる。彼女はゆっくりと身を起こし、ぽたぽたと水を滴らせながら、ゆっくりと目を開けた。
一瞬にして膨れ上がった神気に身が竦む。呼吸が乱れ、シエラの視界を歪ませるほどに、それは強かった。
子猫のように青みがかった灰色の双眸は、無邪気さなど微塵も持たない。峻烈な様相を滲ませた瞳は、爬虫類のように鋭く縦に裂けていた。
――誰だ。
これは蓼の巫女ではない。瞬き一つを見てもそれは分かる。圧倒的な覇気がシエラを呑み込み、浮かび上がる数々の疑問を言葉にすることを許さない。
何度か瞬きを繰り返し、蓼の巫女――正確には、蓼の巫女の体を借りた者――はシエラを見て眉を顰めた。まるで検分するかのように全身を視線でなぞられる。
「名乗れ」
小さな唇から零れた声は、記憶にある蓼の巫女のものより随分と低く聞こえた。疑問を抱くよりも先に、勝手に唇が動く。「シエラ・ディサイヤ」聞くなり蓼の巫女は嘲るように笑い、シエラの髪を乱暴に掴んで引き寄せた。
痛みが走る。痛みよりも恐怖が勝った。脂汗が額に浮かぶ。至近距離で覗き込んでくる瞳の冷たさに、呼吸が速くなるのを自覚した。
「お前は、誰だ……?」
ようやく捻りだした問いかけに、ゴルドーが肩を震わせたのが分かった。蓼の巫女が放つ神気がより厳しさを増す。
彼女は怒りを滲ませながら、言った。
「無礼者。このルタンシーンに、かような口をきくか」
ルタンシーン。
ホーリーの海を守護するディルートの海神(わだつみ)は強大な力を持ち、天候を操ることができる。穏やかなホーリーの海とは相反してその気性は激しく、かつてアビシュメリナを一夜にして海の底に沈めたという荒神でもある。
――シエラの目の前に、神が降りた。
+ + +「神告げ?」
古くから伝わる「神告げ」は、ごく一部の限られた者にしか許されない神聖なものだ。
神の声を聞く。そして、それを伝える。
真に神の声を聞くことができ、それを伝えることができるのなら、その者の言葉は神の言葉となる。ゆえに、神の声を私物化しようと企む者の目から隠すため、その存在は公にされないことが常であった。
稀に我こそが神の代弁者だとして名乗りを上げる者がいるが、そういった人々は大抵が偽りの言葉を重ねるだけだ。その者が嘘をついているかいないかを判断するのは、なかなかに難しい。
だが、誰が見ても、それは真実であると断言できる神告げを行う者もいる。
それが「神降ろし」と呼ばれる儀式だった。
「蓼の巫女が、神降ろしをなさったんですか!?」
「たぶんね。僕も詳しくは聞いてないけど、ルタンシーン神殿の至聖所には神台があって、そこでルタンシーン様が御言葉をお告げになるらしいんだ。至聖所に入れるのは、本来神殿の神官長だけ。でも、蓼巫女はそこに立ち入りを許可されてる」
神殿の壁際に用意された長椅子でシエラを待ちながら、エルクディアとライナはシルディから事の詳細を聞いていた。
海が荒れ始めたのと時を同じくして、蓼の巫女が倒れたのだという。うわごとで何度もシエラを呼ぶ声に、神殿内は大騒ぎになった。ゴルドーがロルケイト城に使いをやろうとしたちょうどそのとき、視察に来ていたシルディが出くわしたのだそうだ。
「でも、それだけでどうして彼女が神降ろしをできると言えるんですか? 神が人の体に入るだなんて、ほとんど伝説に近いことで……それに、仮にできたとしても、無事ではいられないはずです」