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 波の音が近い。
 ごつごつとした岩場は足取りを危うくさせそうだが、少年は跳ぶようにして岩を渡り、高台から眼下の海を満足そうに見下ろした。小さな頭を覆った布が、海風に煽られてはためいている。
 頭上には大きな太陽が輝いているが、木々が生い茂ったその場所はどこか薄暗い。けれども美しい海が一望できるこの場所が、地元の人間からどう呼ばれているかなど、少年にはさして興味のないことだった。

「あーあ、こんっな地味なコト、正直ツマンナイよね。あのオバサンが失敗するから悪いのにさぁ」

 唇を尖らせた少年が手を翳すと、途端に鼻を突く腐臭が辺りに広がった。いつの間にやら、少年の傍らには長身の男が立っていた。まるで影の中から現れたようであったのに、少年は気にした風もなく手にした物を水の湧き出る窪みに落とす。透明な水が一瞬にして赤黒く染まり、ちろちろと流れ出るそれが瞬く間に穢れたのが分かった。細く伸びた水が、山へ、海へと進んでいく。
 清められていた空気は昏く淀み、不気味な影が薄闇の中で蠢いた。どこかから苦しげな悲鳴が響いてくる。血を吐くようなそれを耳にし、少年は楽しそうに喉を鳴らした。

「ははっ、ね、聞いた? 今の声、あれで人魚なんだってさ。美声を武器にヒトを惑わすなんてゆーけどさぁ、あれのどこが美声? しゃがれて、枯れて、きったない、無様な歌声だ!」
「……ヒュー、イェルネはどこに」
「知らなーい。帰ったんじゃない? それよりさー、ヘラスはこれからどうするの? せーしょくしゃたちは、まだぼくらに気づいてないみたいだけど」
「あまり勝手はするな」

 瘴気の立ち昇る塊は、人間と鹿の臓腑だ。抉りだしたばかりのそれは、まだ少年の手にぬくもりを残している。今頃ホーリーのどこかで、腹にぽっかりと穴の空いた死体が転がっていることだろう。それは一つや二つではない。
 子供の顔には不釣り合いな笑みを刻んで、彼は長身の男を仰ぎ見た。

「勝手、ね。はぁーい、わかったよ。ま、あの方が完全にお目覚めでないから、仕方ないんだけどさぁ」

 目を細めれば、遠くに漂う淀んだ気が見える。海に浸透していくそれによって、醜悪な悲鳴が木霊する。
 ヒトの耳には届かない。魔に堕ちた、哀れな幻獣の叫び声だ。

「あっはは! ふふっ、またぜーんぶ海に沈んじゃえばいいのに」

 人魚の歌が重なる。
 美しい海のざわめきに、長身の男は小さく息を吐いた。


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 いろいろなことがあった。
 アスラナ各地に出現した魔物への対応、ホーリーとの間で起こった問題の解決、ベスティアとの水面下での摩擦。ホーリーとの問題で、エルガートの一部からも苦言が呈され、その対応に追われる羽目になった。
 山が崩れた街道の補修工事の書類に判を押す傍らで、王都騎士団総隊長不在に関する意見書に目を通す。中身は、なぜわざわざ騎士長を他国に出向かせたのかと、ユーリの判断を非難したものが多い。なぜだなどと、よくもまあそんなことが言えたものだ。ユーリはかさつく指先で紙を捲りながら、荒々しい筆跡で書かれたそれを目で追った。
 王都を守護する騎士団の、それも頂点に立つ者が他国へ赴いた。理由は神の後継者の護衛だ。とはいえ、その国で彼は王子殺害の容疑をかけられた。――すぐさまそれは間違いであったと知らせが届いたが、第一報が届けられたときのユーリの心情は、他人には計り知れないだろう。しわだらけの重鎮達は、口々に声を揃えてエルクディアを詰った。

 あの若造が。恥さらしが。お飾り騎士が、これだから! なんのために分不相応の地位をくれてやったと思っている!

 激憤して吐き出された言葉の数々に、玉座から腰を浮かさぬように留め置くことが精一杯だった。会議に席を連ねていた老骨達の顔と名前はすべて脳内に叩き込まれている。それはユーリにとっても、嫌というほど覚えがある者達だった。まだ子供だった自分が王位に就くと決まったあのときに、分厚い緞帳の裏でひそひそと声を交わしていた姿をよく覚えている。
 アスラナの王には、祓魔師が選ばれる。魔物が出現し始めれば、それは鋼の掟となってこの国を縛りつける。
 だから今、自分はここにいる。長さの不揃いな銀髪を掻き上げ、ユーリは人知れずこめかみを揉みほぐした。寝不足か、気疲れか、ここのところ頭痛がひどい。
 東の街に新しい教会を建てると聞いていたが、あれはどこの領主が治めていた土地の話だったろうか。王都では塩の値段が上がってきたと耳にした。このままでは市場に粗悪品が流通する可能性もある。対策を練らなければ――。


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