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+ + + シエラ。
それは己に与えられた唯一の名前。だからそれが呼ばれるとき、彼女はいつだって心がさざ波立つのを感じていた。たとえ視界が闇に埋もれようと、伸ばした腕に痛みが走ろうと、あまりにも必死に名を呼ばれるものだから、つい。
つい、応えなければと思ってしまったのだ。
迫り来る死神の鎌を目にした瞬間、彼女は暖かい光に包まれた。
配られる聖水の杯を受け取ったとき、エルクディアは大気の微細な揺れを感じた。
違和を感じて天井を仰げば、ほんの僅かにシャンデリアの炎が揺れていた。鏡に反射される光は嘘をつかない。
己の中で警鐘を鳴らす直感に、彼は反射的に青年王を見た。この国で最も特殊な力を持つ者、それが彼だ。
銀髪の青年はエルクディアと同じように視線を天井に向け、驚愕に目を瞠って唇を割り開く。
そのとき既にエルクディアの中で予感は確信へと変わっていた。はっとして紗幕を振り返り、伏せろと声の限り叫んだのは青年王とまさに同時だった。
一拍も置かずに容赦の欠片も見せない爆音と振動が体を襲う。
人々の悲鳴が鼓膜に突き刺さったその瞬間、彼は少しでもシエラの傍から離れた己を呪い殺してやりたくなった。瓦礫が紗幕を引き裂き、その向こう側に呆然と立ち尽くすシエラの姿が目に映る。
彼女は命に代えてでも守らねばならない。
それがエルクディアに――王都騎士団総隊長に課せられた使命だ。
――だから。
だから、彼女の頭上に容易く命を奪い去ってしまいそうな大きさの瓦礫が落下していくのを目にしたとき、彼は氷の手で心臓を掴まれたのだと錯覚した。
ライナの腕がシエラに伸び、その頭を包み込むように抱き締める。
はっきりと見えたのはそこまでだ。
ろうそくの炎は掻き消え、会場に残ったのは人々の悲鳴と終わりの見えない喧騒。
喉を焼く絶叫が迸り、エルクディアは気がつけば帯革から鞘ごと剣を外して走り出していた。
胸中に灯る思いは『守る』という、ただそれだけだ。失ってはいけない。
なにがあっても、守らなくてはいけない。そう、この手で。
ふと脳裏に浮かんだのは忌々しい過去の情景だった。伸ばした手が届かず、声は微塵も響かず、ただただ絶望だけが手のひらに残ったあの日。
彼は己と愛剣に誓っていた。もう二度と、あの日を繰り返さないのだと。
「二人ともっ、無事か!?」
寸でのところで力任せに瓦礫を打ち払い、細かい瓦礫からも守るように腕を伸ばす。咄嗟にシエラを抱き締めていたライナごと腕の中に収めれば、彼女はほっとしたように顔を上げた。
ライナの小さなかんばせが青白くなっているのを見て、エルクディアは唇を噛む。
ばらばらと振ってくる礫に頬が切れたが、その程度の痛みに構っている余裕はない。肌に感じる殺気に神経を尖らせながらも二人を安全な場所までいざない、頼りない月明かりの下でシエラの顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
シエラの頬を両手で包み込むと左右に動かして怪我がないかを確認し、それから流れ作業のように肩、腕、と手を滑らせていく。
やがて傷一つないことを確かめると安堵の息をつき、もう一度ライナごと彼女を抱き締めた。
「よかった……怪我してたら、どうしようかと思った」
「おかげで助かりましたよ。ありがとうございます、エルク」
「ライナも大丈夫なんだな? なにかあったらすぐに医務室へ――」
「平気ですよ。……それより、一体なにがあったんでしょう」
ぽん、と小さな手のひらで背を叩かれてエルクディアは二人から身を離す。
シエラの目を見つめれば、彼女はまだ今の事態を理解できていないようだった。無理もないとエルクディアは思う。だが、それを説明している暇はない。
大広間にいたほとんどの人間は、近くの兵士らによって安全な外まで誘導してある。
天井も落ち着いたのか崩れるのをやめ、ぽっかりと明いた穴からは満点の星空が顔を覗かせていた。冷ややかな夜風が粉塵で白く濁った空気を掻き混ぜる。
燭台の火は新たに灯されることなどなく、視界は闇に包まれたままだった。
エルクディアは一つ鋭く舌打ちすると、二人を背に庇うように押しやって苦い表情のまま声を張り上げる。
「オリヴィエ! オリヴィエはいるか?」
「――はい、ここに」
闇の奥から控え目な――だが、はっきりと耳に届く――声が聞こえる。
近づいてくる気配は信用の置ける優秀な部下のものだ。
「二人を頼む。なにがあっても守れ。俺は賊を片付けてくるから。――ユーリだけに、任せてられないからな」
「御意」
この暗さでは互いの顔を確認するのも難しいほどだったが、エルクディアにはオリヴィエが深くこうべを垂れたのが手に取るように分かった。この男はいつもそうなのだ。
だからこそ、絶対の信頼を置くことができる。
じゃあな、と言い置いてエルクディアはぴんと神経を張り詰めてさらなる闇の中へ足を踏み入れた。
時折響く金属音は、間違いなく剣をぶつけ合う音だ。既に剣は鞘から抜いてある。抜き身の剣の重たさは数多の命を吸った証だった。
空気を読み取る限り、賊は全部で五人。そのうちの一人がユーリと刃を交えているのだとしても、少し違和が生じた。
もし青年王と対戦しているのであれば、残りの四人の動きが少なすぎる。闇に乗じて動けばいいものを、気配はすべて一箇所に固まっているかのように思えた。
そしてもう一つ、決定的ともいえる違和感の正体。
エルクディアは今まで何度も青年王と手合わせしてきているが、彼の持つ聖杖では剣を受け流したとき、もっと鈍い音が聞こえるはずなのである。
それなのに今耳に届く金属音は高く澄んでおり、明らかに刃同士を打ち合わせる音なのだ。
となれば、この暗さだ。
それに乗じて仲間割れでもしているのかもしれない。――もしくは、そうして油断させようとしているのか。
カツン、とエルクディアはわざと靴音を響かせた。オリヴィエを呼んだことによって相手には彼の居場所はある程度ばれているだろうが、反対にそれを利用してやればいい。
そしてついでに、守るべき――と言っても、彼は自分の身くらい守れるのだが――人物の状態も把握すればいいのだ。
一呼吸分きっちり開けて、同じ大きさでカツン、と靴音が右奥から返される。
青年王からの合図だ。
なんだかんだと言いつつも共にいることが多い彼らは、互いの足音を聞き分けることなど造作もないことだった。
青年王の位置は分かった。そこから考えるに、どうやら剣を交えているのはやはり賊同士らしい。
殺気が放たれる方へそろそろと歩を進める。完全に気配は殺しているのだが、相手に悟られないとも限らないのでエルクディアは油断なく剣の構えを崩さなかった。