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 大広間には特別な祭壇が用意され、シエラから見て右側に貴族の席、左側には王都の民衆の席がある。
 このように一般人と貴族が会場を共にすることはとても珍しく、民もどこか落ち着かない様子で天井がを見上げたりしていた。
 楽士たちの奏でる音色に耳を傾ける余裕があるのは貴族か、大商人、そして肝の据わった一部の民だ。
 少し視線を後ろに滑らせれば、エルクディアになにかを耳打ちしているライナの姿が視界の隅に映る。
 エルクディアはげんなりとした表情で何度か頷いていた。遠く離れた場所にいるわけではないのだが、小声で交わされているために会話の内容までは聞こえなかった。
 外からの視線を遮るための、この薄い紗幕のせいもあるのだろう。
 再び視線を前方に戻せば、ユーリが長々と口上を述べているところだった。くあ、と欠伸を噛み殺してその背を眺める。
 気がつけばざわめいていたはずの場はしんと静まり返り、誰もが青年王の話を一言一句聞き逃すまいと聞いている。
 大広間のあちこちから、女性の吐息が淡い桃色を放って零れていた。

「――さて、では皆で魂の浄化を行おう。この国を、そして世界を不浄のものから救ってくれる神の後継者殿の聖なる水によって」

 わっと湧いた人々の歓声に驚く暇もなく、シエラは薄い紗幕の向こうから伸びてきたユーリの手によって引きずり出されてしまった。
 あくまでも優雅に手を取って祭壇にいざなう青年王が、微笑を浮かべてシエラの耳元で「綺麗だよ」と歌うように囁く。
 ぞっと鳥肌の立った腕を押さえるように身をすくめれば、ドレスよりも幾分か硬い感触の布地が肌に触れた。
 聖杯の前に立ったシエラを見て、その場にいた誰もが己の声を忘れた。
 芸術家が一生を費やしたところで完成させることのできない、奇跡の蒼が惜しげもなく宿された髪は繊細に編み込まれ、金剛石に星屑を溶かし込んだ金の双眸は穢れを知らない無垢な子供のそれに似ている。
 洗練された美貌はさることながら、人々の目を引き付けたのはその服装だ。
 花開くようなドレスでもなく、聖女が着るような衣でもない。
 神の後継者に与えられたのは、本来ならば男性しか袖を通すことを許されない漆黒の聖衣。顔と袖口から覗く手以外の肌をすべて覆い隠してしまうそれは、禁欲的な印象を植え付けるが、彼女の内にある固い色香の蕾を匂わせるには十分だった。
 そんな風に思われているとは小指の爪の先ほども思っていないシエラは、無表情のまま首からロザリオを外すと、銀色に輝く聖杯の中へ沈めた。
 ロザリオが涼やかな音を立てて聖杯の底につく。細い――しかしとても頑丈な――銀鎖を左手でしっかりと握り締め、一度肺の空気を入れ替えたのち、そっと瞼を下ろした。

「<神の御許に誓い奉る。盟約者は聖血を授かりし、シエラ・ディサイヤ>」

 教えられたままに紡ぐ神言には迷いなどなかった。
 面倒なものはさっさと終わらせて寝たい――そんな思いが根底にあったとしても、大気は神言に反応して動きを見せる。
 聖杯の水面が、青く揺れたような気がした。

「<清めよ、神の息吹にいざなわれ。与えよ、清澄なる謳の応えを>」

 紡ぎ終えた瞬間、青い光が逆流する滝のように天井まで突き抜けた。
 光は一瞬のうちに霧散したが、人々に強烈な印象を与えたことに間違いはない。
 呆然として口も利けない者がほとんどの中、シエラは淡々として小さな玻璃の杯にできたばかりの聖水を汲み入れ、傍らのユーリへと手渡した。
 するとこれでもう出番は終わったといわんばかりにロザリオを引き上げて、すっと踵を返してしまう。
 紗幕の向こうへ姿を隠したシエラを見て、ようやく人々がはっとする。
 その頃はもう既に、女官達が玻璃の杯へ移した聖水を配り回っていた。
 
「お疲れ様です、シエラ。あともう少しの我慢ですよ」

 紗幕をくぐって二人がけの椅子に腰掛けたライナは、手にした杯をシエラに見せてから聖水を飲んだ。

「……まだ続くのか」
「そんなに嫌そうな顔をしないで下さい。無理言って紗幕まで用意してもらったんですからね」
「エルクディアはどうした」
「あ、こら。話を逸らさないでく――」
「――伏せろッ!!」

 ライナの声を遮断するがごとく、ユーリとエルクディアの緊迫した声が重ねて響き渡った。
 どういうことだ、という疑問は瞬き一つ分の間に解消された。
 ――ドォンッ!

「きゃあああああっ!」「うわあああ!」

 平衡感覚を奪う大きな地響きと共に耳を劈くような爆音が轟く。雨のように降ってくる粉塵と瓦礫に、人々は恐怖し、逃げ惑った。
 微笑みかけていたはずの天井画の天使達は、無情な悪魔となって人々を襲う。崩れた天井はシエラ達の上にも降りそそぎ、紗幕を無残にも引き裂いていく。
 ざっという布の裂ける音が、やけに大きく聞こえた。
 目の前は立ち込める粉塵で真っ白だ。伸ばした己の手の先でさえ満足に見えず、聴覚は錯乱する人々の悲鳴が奪っていく。 
 ぱらぱらと降ってくる細かい瓦礫が目に入らないように注意しながら、シエラが立ち上がったそのときだった。
 シエラの顔よりも遥かに大きい瓦礫が、彼女の頭上に影を落としたのは。


「シエラーーーーッ!」


 楽士達の奏でる軽やかな演奏は、もう聞こえない。
 絶叫と悲鳴、そして玻璃の砕ける音が、容赦なく耳朶を叩いた。



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