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 辺りはしんと静まり返っていた。昼間の喧騒が嘘のようだ。打ち合う剣戟の音もなければ、野卑な男の怒号も聞こえない。窓の外は夜が支配していた。暗い夜空には細く切ったような月が浮かんでいる。地面を照らす光は少なく、下手をすれば伸ばした手の先ですら見えるか怪しい。
 それでも、ラヴァリルはためらうことなく歩を進めた。闇の中を獣のように息を殺して滑るように歩き、暗がりの中で、針金を使って扉の鍵をこじ開ける。僅かに軋んだ扉の音に、中で寝ていた男は気づいたらしい。窓辺の辺りで、ほんの一瞬光が散った。

「――逃げよう、リース。準備できたよ」

 そこでやっとランタンに火を入れ、ラヴァリルは泣きそうな顔で笑った。オレンジ色の光に煽られて、眼鏡をかけたリースの顔が闇に浮かぶ。迎えに来たよ。柔らかい声で告げたというのに、年下の彼は難しそうに眉根を寄せて、ひどく苦いものでも口にしたかのような顔をした。
 騎士館の医務室に見張りがいないのは、この時間だけだ。ちょうど交代の時間で、兵士は誰もいない。本来ならば代わりに来るはずの兵士は、「突然の腹痛」で遅れている。伝令役は「貧血」で倒れた。
 リースがアビシュメリナで負った怪我は、もうほとんど癒えている。走るのはまだ難しいが、自力で歩くことはすでに可能だ。少し伸びた前髪を払ってやり、ラヴァリルは眼鏡の向こうで揺れる紫水晶の瞳を覗き込んだ。

「リース、大丈夫だよ。あたしが守ってあげる。……あたしが、リースを逃がしてあげるから。だから、ねっ? 行こう」

 普段はシエラよりも遥かに年下に見えるくせに、年相応の女の顔で手を伸ばすのだから敵わない。魔導師を養成するリヴァース学園内部でも、彼女は時折このような顔を見せた。したたかさを見せるくせに今にも泣きだしてしまいそうな顔は、リースの胸を僅かに軋ませる。
 ラヴァリルの肩を借り――女の肩を借りるだなんて、と不満を零す余裕などない――、二人は医務室を後にした。その一室を出たところで、この区画はまだ、王都騎士団の医療部隊も兼ねる十二番隊キャプリコーンや正規医官の担当施設だ。暗い廊下を出来る限り気配を殺しつつ歩いていたところで、角の向こう側から控えめな足音が近づいてきた。
 魔導師二人に緊張が走る。獣のように息を殺し、気を張り詰め、相手の気配を探った。

「え……、ちょ、ちょっと! どうして起きているんですか、リースさん! いけません、ベッドに戻って下さい!」

 明かりに照らし出された線の細い姿に、ラヴァリルがあからさまにほっとしたのが分かった。屈強な騎士達のものとは比べ物にならない柔らかい声が困惑のままリースを叱るが、騎士館に勤める医官見習いの迫力などたかが知れている。
 困り顔のまま近寄ろうとした医官見習い――名はソランジュ・アルオンといったはずだ――を制したのは、リースではなくラヴァリルだった。

「ソラちゃん、だっけ? えっと、ここは見逃してくれちゃったりしてくれると嬉しいなー!」
「見逃す……? ラヴァリルさん、なにを言っているんですか? まだリースさんは安静にしていないと……」
「来ないで」

 強い物言いに、ソランジュの肩が跳ねた。
 栗色の髪を顔の横でくるりと丸め、白衣に身を包んだ姿は、繊細さしか連想させない。同じ女でも、ラヴァリルとソランジュの力の差は歴然だった。どちらの女も死をその目で見たことがあることには変わらないが、片や奪う者で片や救う者だ。この状況で優位に立つのはどちらかなど、考えずとも見えている。
 ラヴァリルは銃を構えると、迷うことなくソランジュへ銃口を向けた。薔薇の彫り物が施されたそれを、ゆうらりとランタンの明かりが舐めていく。

「ラヴァリルさん……?」
「どいて。怪我させたくない」

 その横顔に笑みはない。いつも子供のようにころころと変わる表情は冷たく凍りつき、エメラルドの双眸が感情を宿さずソランジュを射抜いている。声すら違うようだった。リースは思わず、喉の奥で笑った。出来損ないの魔導師、ラヴァリル・ハーネットが自分と共に行動する理由を思い出したからだ。
 この女の強かさは、誰よりも自分が知っている。


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