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 暴れる彼女に何度も告げる。「大丈夫だよ、大丈夫だから」それはもはや呪文のようだった。蹴った小石が泉に落ちた拍子に、魚が驚いて跳ね上がる。
 抵抗は次第に収まり、悲鳴は嗚咽へと変わっていった。ダメだったかなあ。苦笑交じりに息を吐き、そっと体を離そうとすると、強く首に腕が巻きついてくる。「えっ」驚嘆の声は喉の圧迫で見事に潰れた。

「ぐえっ! え、えっ?」
「――……さいてい」
「えっ? え、あの、……えっ?」

 あまりにも強く引き寄せられているせいで、首を巡らせることすらできない。耳と耳をくっつけるような状態で、シルディは何度も瞬きを繰り返した。
 戻ってきて初めて、クレメンティアの口から意味を成す言葉を聞いた。

「さいていだと、いったんです。……誰がっ、誰が、甘ったれですか! ぽえぽえ王子のくせに偉そうに! わっ、わた、わたしが、どんな気持ちかも知らないでっ!」

 勢いよく体が離されたかと思えば、事態を把握する前に思い切り頬を張られた。派手な音と痛みがじんじんと頬に宿るが、シルディはただ茫然としたまま目の前のクレメンティアを見つめることしかできなかった。
 大きな瞳が涙で滲んでいる。ぽろぽろと雫が零れ始め、鼻の頭を真っ赤にして彼女は泣き怒った。
 不安だったのに。怖かったのに。頑張ってたのに。それが逃げ口上でしかないと、気づいていたのに。全部暴かなくてもいいじゃない。ひどい、ずるい、いじわる。
 震えて揺れる言葉は聞き取りづらい。必死になって怒鳴れば怒鳴るほど音は外れ、あっちこっちに迷子になって洞窟の中を跳ね回る。こんなみっともない姿を見たのは、きっと初めてだ。

「ぷっ……、ははっ、あははははっ!!」
「な、なにを笑っているんですか!」

 またしても肩を思い切り殴られたけれど、そんな痛みは大したことがなかった。笑いすぎで浮かんだ涙を拭い、ぐちゃぐちゃな顔を覗き込む。
 そこに、甘えるような瞳はなかった。

「あははっ、ごめんごめん、でも、なんかおかしくって。ほんとにこんなので戻ってくるなんて思ってなかったし、あはっ、それに、その顔!」
「なんなんですかっ、本当に!!」
「ちょっ、痛いっ、痛いよ! やめてってば!」

 冷えた空気が熱を持った頬に当たり、ちょうどよかった。笑い声が大きく響くのも、「シルディ!」と怒った声で名前を呼ばれるのも、とても心地よかった。
 あのときも、ここで怒られた。情けない頼りないと文句を言われ、それでも嫌にならなかったのは、彼女の言葉にはいつだって優しさがあったからだ。
 ――約束したね。
 残念ながら、僕は優しい人でもいい人でもないから、だから、あんな約束ができたんだろうけれど。

「ねえねえ、今、どっち?」
「はい!?」
「だから、クレメンティアかライナか。どっち?」

 狡賢い大人達の人形になるくらいなら。その血から逃れることができないのなら。
 守りたいものがあった。
 だからついでに、できる範囲で君を守ってあげる。

「……わっ、わたしは、わたしです! この馬鹿王子っ!」
「なにそれ、乙女心って難しいなあ……」

 僕が守ってあげる。だから、君は笑ったり怒ったりしていて。
 洞窟の出入り口が白い。そこを抜ければ、色違いの青が広がっている。なによりも愛おしいこの国の一部に、彼女はもう溶けている。
 まだ肩を怒らせるクレメンティアに、シルディはすっと手を差し出して笑った。


「――おかえり」


 さあ、帰ろう。


+ + +



 空はそこにありますか。
 海はそこにありますか。

 青はそこに、ありますか。



「……あっ」

 洞窟の向こうで、人影が揺れたように見えた。大きく胸が音を立てる。体を巡る血液が速度を速めたような気がした。影が揺れる。 
 白が、見えた。
 それまで岩場をうろうろと見て回っていたシエラの足が、急に根を生やしたように動かなくなった。
 陽光に目を細め、眩しそうに目の上に庇を作るライナの顔は、泣きはらしたとすぐに分かる有様だった。紅茶色の瞳がシエラを見つけ、困ったように目が逸らされた。
 声が出ない。駄目だったのだろうか。彼女の手は、シルディにしっかりと繋がれていた。

「シエラ、行こう」

 エルクディアに手を引かれて、やっと気がつく。引き結ばれた唇には、ひどく見覚えがあった。
 波の音が、大きくなった。

「ライナっ!」

 今度はエルクディアの手を引いて、シエラは駆け出した。足場の悪さなどものともせず、跳ねるようにライナの元へ。驚いて目を丸くさせる彼女に、勢いを殺さないまま抱きついた。

「きゃあっ! シエラ!?」
「うわっ、ちょ、危ないっ!!」

 シルディごと倒しそうになるのを、なんとかエルクディアが支えてくれる。危ないだろと怒られたような気もするが、そんな小言はシエラの耳には届かない。
 ただ、鈴を転がすような声だけが流れ込んできた。「シエラ」確かにそう呼ばれた。唯一無二の、この名前が。

「シエラ、くるし――」
「おかえり」
「あ……」
「おかえり、ライナ。ずっと、待っていた」

 耳まで赤く染まったライナが、視線を何度も彷徨わせ、やがて覚悟を決めたようにしっかりと見上げてきた。潤んだ目は充血していて綺麗ではなかったけれど、紅茶色のそこには、自分の顔が映り込んでいる。
 涙を拭うライナに、隣でエルクディアが微苦笑を零したのが分かった。「大丈夫だよ」そう言ってシルディが手を握っている。
 潮騒に、声が浮かんだ。



「――ただいま」



(ラクリマ・ファルベ)
(古代語で、“少女の涙”)


+FIN+
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