9 [ 349/682 ]

+ + +



 蒼い世界を望むのならば、求めなさい。
 目覚めのときはもうすぐそこ。
 求めなさい。望みなさい。
 貴方の思う蒼い世界を。


+ + +



 波の音が遠くなった。
 この場所は波よりも風の音が大きく響き、時折天井から滴る雫がぴちょんと愛らしい水音を反響させていく。吹き込んでくる風の音と薄暗い空間が怖いのか、クレメンティアは始終怯えていた。いつ精神の均衡を狂わせて叫びだすかもしれない中、シルディは優しく声をかけ続け、洞窟の奥にある泉の前までやってきたのだった。
 壁に空いた穴の隙間から光が漏れ、泉に差し込んできらきらと水面を輝かせている。透明な水の中を魚が躍り、脇では宝石エビがぴょんと跳ねた。
 握った手は小さいのに少し硬くて、貴族の令嬢のそれとは思えない。

「ねえ、クレメンティア。覚えてる? 実は遭難したのって、ここだったよね。あのときは海も荒れ気味だったし、なによりこんな場所があるなんて知らなくって、帰ったらこっぴどく怒られたんだよ。こんなに近くで遭難できるだなんて、あなたはどれだけ馬鹿なんですかって。レンツォったらひどいでしょ?」

 クレメンティアは答えない。意味をなさない音をいくつか零しただけで、不安そうにシルディを見上げてくる。

「怖くないよ、大丈夫。そりゃあ、僕はエルクくんに比べたら頼りないだろうけど、でもね、大丈夫だよ。こんなのでもさ、ミクシィーア城から大脱出してきたんだから! ま、まあ、リオンとフェリクスさんのおかげだけどね」

 昔から、クレメンティアは白が好きだった。白い服に花を飾ったり、ストールを巻いたり。
 よく似合っていた。
 けれど、こんな真っ白はらしくない。

「知ってる? ミクシィーア城の地下には秘密の抜け道があるんだよ。……ホーテン兄様も、知らなかったんじゃないかなあ」

 その名前に、クレメンティアの肩が大きく揺れた。

「僕が捕まってた地下牢の壁に、ラクリマ・ファルベが彫ってあったんだ。知ってるかな。バルトロ・アランジの書いた古代の戯曲なんだけど、これってバルトロが獄中で書いたものなんだ。あんまり有名じゃないんだけどね、歴史的には面白くって。バルトロは無実を訴えながら、死ぬまで獄中で戯曲を書き続けた。そこにね、彼が見つけたミクシィーア城の抜け道のヒントが隠されてたんだ」

 バルトロはいつでも逃げ出せる状況にありながら、無実の主張のために牢に残り続けた。
 書物で見たときは半信半疑だったが、あの牢で壁に刻まれた物語を見て確信したのだ。魂の叫びを伝えてくるような傷跡は、真実を物語っていた。

「それで……ああ、まあいっか。自慢話はあとでしよっか。ええと、そうだね、なにを話そうか。……うん、あのさ、君はクレメンティアって呼ばれるのを嫌うけど、僕は好きだよ。もちろん、ライナって呼び方も好きだけど」

 程よく闇が満ちた洞窟内に、シルディの声が木霊する。幾重にも重なって耳に届く言葉に、クレメンティアはぱちぱちと瞬きを繰り返し、泉に視線を落とした。
 少しのきっかけで元に戻ると医師が言っていた。耐え難い恐怖から、一時的に自分に鍵をかけているだけだと。赤い色を見せても強く怯えないことから、恐怖によって完全に心が壊されたわけではない。だから、なにか引き戻すきっかけを与えてやればすぐにでも状態は回復するのだと。
 いくつもの方法を試して、それでも無理だった。
 ならばこれはどうだろう。
 ――潮騒が遠くに聞こえる、この場所なら、きっと。

「でもね、僕はライナのことはあんまりよく知らないんだ。心配性の癖に妙に強がりだったり、ちょっとずるいところがあったりするのは一緒だと思うんだけど、でも、でもね?」

 戻っておいで。
 もういい時間だよ。

「ここで僕と約束したのは、クレメンティアなんだ。だから、いつまでも逃げてもらってちゃ困る。クレメンティアとして生きるつもりなら、僕との約束を守って。ライナとして生きたいなら、シエラちゃんを泣かせないで。守るって決めたんだよね? 僕にそう言ったよ、君は。でも今、君はなに一つ守れてない。守ろうとしてるのは自分だけだ。シエラちゃんは頑張ってるよ。それなのに君は逃げるの?」
「や、あ……っ」
「ごめんね。僕、優しい人間じゃあないから」

 肩を掴んで向かい合わせ、シルディは目の高さを合わせて表情を引き締めた。

「いつまでも甘ったれてないで、しっかりしなさい。君がどんな道を選ぼうと、君が君であることには変わらない」

 ――いつまで甘えたさんでいるつもりですか? しっかりしてください。貴方がどんな道を選ぼうと、貴方はホーリーの王子なんですよ。
 何度も言われた。この言葉を聞くたびに、前を向くことができた。
 つらいのは分かっている。苦しいよね、痛いよね。さぞ怖かっただろう。
 でもね、君をこのままにしておくのは、僕が嫌なんだ。

「僕はね、どっちの君も好きだよ。だから逃げないで。君が選んだ神官の道を――“ライナ”を、クレメンティアから逃げる理由にしないで。君はどうあったって、一人の人間なんだから」
「……あ、いや、っ、ぁあああああああああああ!」
「帰っておいで。帰っておいで、クレメンティア! また二人で、ゲボガボ生活なんて嫌でしょう?」

 半狂乱で喚く口を塞ぐように、クレメンティアの頭を自分の肩に押し付ける。わんと響いた悲鳴は、外にまで届いただろうか。手に負えなくなればエルクディアに助けを求めるより他にないが、可能な限り自分の手でどうにかしたい。強く抱き締めた体は激しい抵抗を続け、シルディは何度も足を踏まれ、脇腹を殴られ、背中をごつごつとした岩壁にぶつけるはめになった。



[*prev] [next#]
しおりを挟む


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -