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「そうだな。こっちは知る人ぞ知る場所らしいし。いくつか流れが複雑な場所もあったし、慣れてないと辿り着き難いんだろうな」

 拳一つ分の距離を開けて隣に座れば、ちらと金の瞳がこちらを向いた。透き通ったその色は、他の誰も持っていない。シエラだけの色だ。
 あまりにも綺麗だった。だから、綺麗なままでいてほしかった。
 ふうと息を吐き出して空を見上げるその横顔が、あの日見たそれと重なった。暗闇が降り、針の先で突いたような星々が空を彩るあの夜。丘の上でただ静かに月を見上げていた横顔を思い出した。けれど、あのときのものよりも、今目の前にあるそれは随分と大人びて見えた。揺れた睫毛に乗っている哀愁が、あのときのものとは異なっているのだろうか。
 どくり。跳ねる心臓に嫌気が差す。手を伸ばす勇気など出てきやしないのに、腕は意思に反して蒼を求める。
 この思いはなんなのだろう。名などつけたくない。型に填めてしまえば、ひどく陳腐なものになる気がした。名をつけてしまえば、捨ててしまわなければならない気がした。

「……エルク」
「ん? どうした?」

 ともすれば波の音に掻き消されてしまいそうな声は、はっきりとエルクディアの耳に届いた。

「私は、進めているだろうか」
「え?」
「……気づいたんだ。私は、なにもしようとはしてこなかった。だから、なにかしようとして……いつも、口先ばかりで覚悟を決めて。何度も、同じことばかりを繰り返して」

 人狼のときも、アビシュメリナのときも、そして、今回も。
 そう言ってこちらを見つめてくる金の双眸は、怖いくらいに美しかった。

「でも、何度でも思う。自信などないし、また、口先だけかもしれないが、それでも……。それでも私は、お前を守りたい」

 目を逸らされることなく告げられた言葉に、胸が震えた。なにを言われたのか理解するよりも早く、腕が伸びた。潮風を含んだ髪の匂いを吸い込んだことで、やっと抱き締めたのだと自覚した。
 バルコニーで怯えるように震えた体が、今はほんの一瞬肩を跳ねさせただけで腕の中に納まっている。小さくて温かい。伝わってくる動揺すら逃がさぬようにと、抱き締めた腕に力を込めた。

「エ、エルク? おい、少し苦しい、だから――」
「ごめん、無理」

 離せない。
 硬い声で告げると、シエラは抵抗するように動かしていた腕を大人しくさせ、こくりと喉を鳴らした。

「俺は、平気だよ。なにがあっても。なにをされても。だから、心配しなくていい」
「……そんなわけ、あるか。殴られれば痛いし、蹴られたら骨だって折れるかもしれない。斬られれば血だって出るだろう、それにっ! ……それに、死ぬことだって、あるかもしれない」
「あー……、そうかな」
「そうだ! お前がいくら頑丈だろうと、万能ではない。魔物は私に任せればいいし、政治などユーリか誰かにさせればいい。お前がすべて背負おうとするのは、おかしい……!」

 絞り出すような声と共に、ぎゅっと背中が強く握られた。
 政治という単語に少し首を傾げそうになって、寸前で気がつく。ベラリオの元へ身を差し出したことだろうか。誰かになにか言われたのか。クロードかフェリクスか、それともレンツォか。おそらくは最後だろう。
 問うと、シエラは少し迷ったのちに頷き、顔を上げるそぶりを見せた。僅かに身を離せば、至近距離で瞳が揺れる。

「お前が政治の鍵になると、レンツォが言っていた。難しいことはよく分からないが、その、――お前が王都騎士団の長であることそのものが、意味を持つと」

 嫌な意味で心臓が跳ねた。

「あんまりあの男の話を真に受けるな。ろくな奴じゃないから」
「確かに性格は悪そうだが、悪い奴ではない……と思う。だって、アイツにとって、私はなに一つ特別などではなかったんだ」
「は? それって、どういう……?」
「たまたま部屋で二人になったとき、アイツに言われた」

 神の力を受け継ぐと言われていても、微々たる力しか使えない。友人一人守れない。
 蒼い髪を握り締めて俯くシエラの髪を掴んで顔を上げさせ、彼自身の薔薇色の髪を突き付けながら、レンツォは呆れたように言ったらしい。

『自意識過剰なお嬢さん。世界にたった一人なのはあなただけではありませんよ。――この髪とまったく同じ色をした人間がいるならば、ここに連れてきてみなさい』

 なんて傲慢な男だ。エルクディアの湧き立つ怒りとは反対に、シエラは穏やかに笑って金の髪に触れてきた。

「アイツの言うとおりだった。私もお前も、なんら変わりがない。そう思ったら、少しだけ楽になった」
「……そっか」
「ああ。ライナも、シルディに任せておけばなんとかなる気がする。だから今は、信じて待っていようと思う」

 もう一度「そっか」と返し、再び強く華奢な体を抱き締めた。今度は身じろぎが大きくなって、「離せ!」と怒られる。それでも、エルクディアは離さなかった。
 もう少しだけ。そんな我儘を耳元に落として、怯んだ体を、二つの首を斬り落としたのと同じ腕で強く抱く。
 なんら変わりがないと言ったのは、シエラの方だ。汚れた体で触れることはひどく怖くて、後ろめたくて、胸が痛い。汚い自分を見せることによって、彼女が汚れてしまうのが嫌だった。
 『王都騎士団総隊長、エルクディア・フェイルス! お前は、私の騎士だろう! だったら、私を守れっ!!』あの叫びが耳の奥で何度も反響している。もう彼女は、言葉の意味を知っている。知っていて、ああ言ってくれたのだ。
 どんどんと臆病になっていく自分とは裏腹に、彼女は先へ先へと進み始めている。置いて行かれそうな恐怖を覚えたのは、幼い子供の頃でもそうないことだった。



 ――なあ、シエラ。
 海の青はとても美しいけれど、君の蒼とは違うんだ。





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