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「……シエラ? どうした、気分でも悪いのか?」
「ちがう。大丈夫だ。……ただ」

 言おうか迷って、結局口にした。

「――失ったものが多すぎて、少し……」

 目の前で消えていく命。
 壊れていく心。
 見えない本音。
 覚悟さえも打ち砕かれてしまいそうで、不安になった。

「俯かないで。君はまだ、なにも失ってなんかない」

 思いのほか強い声に、シエラは吸い上げられるように顔を上げた。

「クレメンティアもリースくんも生きてる。テュールもクロード神父も無事に帰ってきた。エルクくんだって、君の隣にいる。……ね? なにも失ってなんかないでしょ? だから俯かないで」
「あ……」
「勝手に思い出にしちゃダメだよ。思い出ってね、どんどん綺麗になっていくんだ。だから、……って、あれ? 思い出?」

 言葉を一度飲み込んだシルディは、ぱちぱちと瞬きを繰り返して考え込むように顎に手を当てた。その目にもはやシエラは映っていない。訝ったミシェラフィオールが声をかけても、彼はぶつぶつと何事かを繰り返すだけで応えようとはしなかった。
 そしてはっと顔を上げたシルディが、満面の笑みでシエラの肩を抱いた。

「そうだよ、それだよ! ありがとう、シエラちゃん!! ちょっと待ってて、船を出してくる! 第四桟橋で待ってて!」
「え、あっ、おい、シルディ! シルディ!?」
「おやまー、行っちまいましたねェ」
「ミシェラフィオール様、第四桟橋とはどちらに?」

 ミシェラフィオールの案内を受け、シエラ達は第四桟橋に向かうことにした。遅れてやってきたクロードとフェリクスは、このまま白露宮に残るらしい。
 シルディは、なにかいい解決策が浮かんだのだろうか。医者ですら時間の問題だと言っていたライナを、元に戻すことができるのだろうか。先ほどシルディが抱きついてきた肩口にエルクディアの手が置かれたのを感じながら、シエラは静かに席を立った。


+ + +



 息が弾む。苦しくなって足がもつれても、それでもシルディは全速力で走り続けた。何度も折り返す階段を駆け上がり、空中庭園を抜け、坂を下り、白露宮の最奥にある温室へ続く小道をひた駆けた。
 温水が足元を抜けていく。背丈をゆうに超える植物に囲まれるその場所では、扉を開けた瞬間に甘い芳香で全身を包まれる。シルディの顔ほどもある大きな赤い花が、一枚だけ花弁がもぎ取られて揺れていた。天井付近では極彩色の小鳥が囀っている。
 小道を進むうちに、水音に混じって小さな笑い声が聞こえてきた。歩くたびに体に葉が当たり、がさがさと音を立てる。
 気配に気がついたのだろう。笑い声がぴたりとやみ、空気が僅かに硬くなる。
 それでも、シルディの視界が拓けると同時に、張りつめた空気は和らいだ。周りを背の高い植物で円形に囲んだ壇上には、白く塗られた木製の寝台が設置されていた。天井から吊り下げられた天蓋には、色とりどりの花弁や蔦が絡みついている。
 植物に囲まれた寝台の中に、彼女はいた。
 裾を引きずる白いドレスを身に纏い、髪には花を飾り、子供のようにくすくすと笑うクレメンティアが寝台に腰かけて、花で遊んでいた。
 白いタイルが、甲高い足音を響かせる。

「おはよう、クレメンティア。遊んでたの? ――ねえ、散歩に行かない? 大丈夫、僕がずっと傍にいるよ。心配しないで、大丈夫だから。ね? おいで、クレメンティア」

 揺れるまなざしに微笑みを返し、シルディは宙で戸惑う手を取った。一瞬震えた小さな手をしっかりと握り、軽く引き寄せる。使い古された表現だが、受け止めた体は羽のように軽く感じた。
 ぎゅっとしがみついてくるクレメンティアが怯えるように首筋に頬を摺り寄せてきたので、シルディは跳ね上がる心臓を隠すこともできずに眉を下げた。小さな頭を掻き抱き、前髪の生え際に軽く唇を寄せる。花の香りが漂った。

「大丈夫だよ、なんにも怖くない。約束するよ。……僕が、ずっと傍にいるから」


+ + +



「おーおー、行っちまいやしたねー」

 クロードと入れ違いで飛び出していったシエラとエルクディアの後姿を目で追いかけ、フェリクスは膝を叩いてけらけらと笑った。
 しばらくはミシェルフィオールやリオンと歓談を楽しんでいたフェリクスだったが、突き刺さるレンツォの視線の冷たさにようやっと腹を括ったようだった。

「なんスかー」
「言いたいことは山ほどありますが、まず一言だけ。あなた、いつまでここにいるつもりですか」
「旨いもん食うまで?」
「死んでください」

 すぐさま窘めてくるシルディはここにはいない。クロードはもちろん、女性二人も楽しそうに笑うだけでレンツォの暴言を咎める様子は一切見受けられなかった。先ほどまでとは違う空気の流れに、誰もが一旦紅茶で喉を潤し、浅く息を吐いて己の中で整理をつけていた。
 ホーリーの空は高い。抜けるような青空の真下には海が広がっている。ホーリーの民は海が好きだ。海から生まれてきたと誇らしげる語る民達は、季節を問わず海に入る。けれどこの数日は、二人の王子の喪に服すため、娯楽で海に入ることは自粛しているようだった。
 海が静かだ。レンツォはつと目を細め、同じように海を眺めていたフェリクスに視線を戻した。


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