28 [ 340/682 ]
「自己紹介はまた後程。私はあそこの男を張り倒してきます」
レンツォのもとに行く彼女は、若干左足を引きずるようにして歩いている。シエラ達を庇う際に痛めたのだろうか。
向こうではフェリクスの叱責が飛ぶ。「エルクくん、どうしたの」シルディの一人言に、腕の中のライナが反応を見せた。薄く開かれた唇から、シルディの名が零れる。
「……るさない、許さないよ、シルディ。かわいいぼくの弟。でも、許さない。クレミーアはぼくのものだ。渡さない、ぼくの、ぼくの……」
「ライナは、お前なんかに渡さない」
「うるさいっ! ……そうだ、ルチア、ルチアは!? グイード、ルチアはどこ!」
半狂乱になったホーテンが必死に臣下とルチアを呼ぶ。兵士達も、第一王子ということも手伝ってか無理やり取り押さえることを躊躇しているようだった。
グイード。そう呼ばれる男は、扉の脇で静かに佇んでいた。彼は痛ましげに目を細め、彼の呼びかけに応えた。
「……お呼びですか」
「ルチアならここにいるよぉ〜」
グイードの腰に抱きつき、少女が笑う。声は確かに笑っていた。彼らが扉の前にいることによって、誰一人として聖堂内から出ることはできないのだろう。扉の向こうに立ち込める煙は、ルチアが放った毒煙に違いない。
少女の笑い声を聞いて、呻くのみだったファウストが牙を剥いた。
「ルチアァアッ! どういうことだ、なんで裏切った、なんで王を殺さなかった!」
怒りは痛みを覆い隠す。エルクディアの剣を引き抜き、血を滴らせながらルチアを目指して駆ける少年の目は憎悪に染まっていた。信頼していたものに裏切られた喪失が光をなくす。それまで感情を映さなかった人形のような顔は、今や醜く歪んでいた。
ルチアの手が己の胸を掴む。悲しみは痛みを増幅させる。それでも、彼女の声は笑っていた。
「だってにーさま、ルチアね、マルセルさまのこと嫌いじゃないんだもん」
「ふざけるなっ! 恩義をっ、恩義を忘れたか! ぼくらを拾って下さったのはホーテンさまだ、それを忘れたのか!?」
「忘れてないっ!! っ、確かに、拾ってくれたのはホーテンさまだけど、でもっ、でもね! ルチアを見てくれたのは、レンツォだけだったんだよ!!」
そこで初めて、ルチアの声が揺れた。
ファウストの背に斬りかかろうとしたエルクディアを、フェリクスが制する。代わりにファウストを追ったのは、手の空いたクロードだった。
シエラはレンツォを見た。薔薇色の髪を持つ男は、脇腹から血を流す少年を冷ややかに見つめている。
「ホーテンさまには感謝してるよ、ルチア達を見つけてくれて、拾ってくれて、生かしてくれて! でも、必要とされたのはバケモノのルチアだった! ベラリオさまのところに行けって言われて、嫌じゃなかったけど、でも、でもぉっ! それでも、さみしかったんだもん! ルチアは、さみしかったのぉっ!」
彼らがどんな生まれなのか、シエラは知らない。
十を過ぎたかどうかも怪しい彼らがどんな生き方をしてきたのか、分からない。
少女の叫びは、他の誰もを黙らせるほど悲痛なものだった。
「レンツォは言ったんだよ、一緒だって! ルチアも、レンツォも同じバケモノだって! だから、ルチアはルチアでいていいんだって!!」
「きさまっ、その程度のことでッ!!」
心変わりには単純すぎる、たった一言。
それでも、子供の無垢な心には十分すぎたのだろう。
ファウストの速さの落ちた攻撃を、クロードが容易に弾く。膝をついた少年の手から槍を奪ったフェリクスは、膝でそれを半分にへし折ってその場に転がした。
「…………そう、そうなの、ルチアも、弟の味方をするんだね。それじゃあ、グイードも?」
「ホーテン様。……私は、グイードではございません」
幽鬼のようなホーテンが首を傾ぐ。
「グイードは我が兄。あなたが気まぐれに魔物と対峙させ、無残に殺された男にございます。お忘れですか」
「え? そうだっけ……?」
「私はループレヒトです。我らはさほど似てはいなかった。私も兄も、共にあなたの傍にあった。……それでも、あなたは覚えておられない。あなたにとって、我らにいかほどの価値がございましたでしょうか」
「価値? ふふふ、うん、価値。ないよ。ないない、ない。あるわけないでしょ、そんなもの! ぼくにはクレミーアさえいればいいんだよ、クレミーアがいれば! そうでしょう、クレミーア。あはっ、起きてるんでしょう、ぼくのかわいいクレミーア。さあ、こっちを見て」
王族の気品を全身から漂わせ、ホーテンは半歩前に進み出た。取り囲んでいた兵士が圧倒され、僅かに身じろぐ。魅了とはこういうことを言うのだろうか。彼が微笑むだけで、妖しい魅力に囚われる。
のろのろと視線を持ち上げたライナに伸ばしたホーテンの手には、彼女の頭を飾っていた髪飾りが握られていた。
「取り押さえろッ!」
エルクディアとフェリクスが同時に叫ぶ。
その一瞬は、あまりにもゆっくりとした時間だった。
「愛してるよ、ぼくのクレミーア」
兵士の甲冑が鳴る。
時が、止まった。
頭を飾るはずの美しい髪飾りは、男の首を飾っていた。
白い肌に赤が伝う。
花が染まる。
濁った笑声に、シエラの腰が抜けた。シルディが乾いた声を上げる。舌を打ったのは誰だったろう。
髪飾りが引き抜かれ、男にしては細く艶めかしい喉元から鮮血が吹き上げる。
「あ……、う、あ……、ホーテンさまぁああああああああああああああああっ!!」
耳をつんざく悲鳴に一拍遅れて、ライナは純白のドレスに降りかかってきた鮮血を目で追った。頬に飛んだ赤を拭い、わなわなと唇を震わせ、絶叫した。
「いやあああああああああああああああああああああああっ!!」
なにかが壊れる、音がした。
back