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 ライナの悲鳴が聞こえた。
 恐怖に彩られたそれは聞いている方がぞっとするほど悲痛な叫びで、喉が破れるのではないかと心配するほど大きく響き渡っていた。なにがあったのだろう。なにをされたのだろう。無事だろうか。大丈夫だろうか。
 逸る気持ちが足を動かす。もうどのくらい城内を走っているのか分からなくなるくらいに、シエラ達は奔走していた。とうの昔に体力は底をついているはずなのに、どういうわけか足が自然と動いた。走るたびに鼓動が大きくなる。心臓が一つ脈打つごとに、命があることを実感させられる。これは神でもなんでもない、ただの人間の体だ。
 一直線の回廊を進むだけかと最初は思っていたが、実際はそううまくはいかなかった。各部屋に配備されていた兵士達が飛出し、抜け道を使ったらしいルチアの毒煙が行く手を阻む。悲鳴が聞こえた部屋まではそう遠くはないだろうに、遠回りさせられるもどかしさがたまらない。

「<我がもとに集いし火霊達、炎壁の守りを築きたまえ!>」
「<風霊よ、吹き払えっ!>」

 クロードの炎の壁が追っ手を阻み、シエラの風が毒煙を霧散させる。しかし次第に幻の炎に怯む者は減っていき、今では目くらましの役割を担うのみとなっていた。
 頭の中から痺れさせる毒煙だというのに、どういうわけかファウストは構うことなくその中を突っ切って槍を振るってくる。視界を覆う煙が晴れたその一瞬で、エルクディアはどう動くかの判断を下さねばならなかった。
 片腕が痺れているせいで、両手で剣を握れない。まともに組み合う余裕などない。突き出された切っ先を横に流し、ただひたすらに駆けていく。

「しつこいっ!」
「しつこいのはお前達の方だ。なぜここに来たッ」

 味方を巻き込むのも構わずに、ファウストは鋭い突きを繰り出してくる。幻炎の中に怯むことなく飛び込む額には、珠のような汗が浮かんでいた。
 何度も切迫した応酬を繰り返し、角を曲がったところで視界が急に拓けた。――そう思ったのは一瞬だ。回廊の両側が全面鏡張りになっており、どこに自分がいるのか分からなくなりそうな空間が無限に広がっている。その先には、流れる水の意匠が凝らされた大きな扉がずっしりとした風体で待ち構えている。
 ファウストが大きく間合いを取り、ルチアが楽しげに笑って小瓶を床に叩きつけた。それまで平気な顔をしていたファウストが、一瞬苦しげに眉を寄せる。
 神言を唱えようとしたシエラを、エルクディアは慌てて抱きすくめた。肩口に小さな顔を押し付けたまま、滑るように扉に体当たりして部屋の中へ飛び込む。汚染されていない空気を確かめ、そこでやっとシエラを離した。息苦しさで滲んだ瞳は潤み、赤い顔で大きく息を吸う様子に、こんなときだというのにどきりとした。

「ここは……」

 数歩進めば冷たい水の感触が足首を撫でた。首が痛くなるほど高い天井には、太い梁に大きな鳥籠のようなものがぶら下がっていて、風もないのにゆらゆらと揺れている。部屋の周囲をぐるりと囲う足場は白星石といって、とろけるような白い石の中に金や銀の細かな鉱石が入り混じった高級なものだ。
 部屋の中央、ちょうど鳥籠がぶら下がっている真下は飛び石の足場もなく、水で満たされていた。床の彫り物が海の底を思わせ、埋め込まれた青や緑の石が透き通った水に色を与える。
 ロルケイト城よりも遥かに広い水の間の美しさに、シエラは思わず息を呑んだ。天井近くに細長い窓が這うように取り付けられ、そこから漏れる光が白い壁に絡みつく緑の蔦を照らしている。ところどころに赤や黄色の花が咲き、花弁を散らしては中央へと繋がる小川に落ちてさらさらと流れていく。
 見惚れていたのは一瞬だったのだろう。ファウストが咳き込みつつも部屋に滑り込み、水飛沫を上げながらエルクディアに向かって槍を振り下ろした。

「シエラ、下がってろ!」

 ここは足場が悪い。ファウストは裸足だ。最初は靴を履いているこちらの方が有利かと思っていたが、足首まで水で満たされたこの部屋では慣れている分、裸足のファウストの方が動きやすいだろう。水の抵抗をものともせずに少年は足を捌き、的確に急所を狙ってくる。
 遅れて飛び込んできたルチアがその手を水路につけたのを見て、クロードが小さく笑った。

「ここで毒はちょっとまずいかな〜? お嬢さん、復唱してくれる?」
「分かった!」
「よし、いい子だね。――希う。流れ巡りて世を駆ける風霊達よ」

 エルクディアがファウストの一撃を受け流す後ろで、シエラが強くロザリオを握り締めた。神気の揺らめきに反応したのか、それまでずっとシエラの胸元に隠されていたテュールが顔を出して双眸をきらめかせる。
 クロードの声は静かで、すっと染み入るようだった。

「<希う。流れ巡りて、世を駆ける風霊達よ>」
「希う。流れ巡りて世を渡る水霊達よ」
「<希う。流れ巡りて、世を渡る水霊達よ>」
「――今しばしここに留まり、清廉な風を、清浄な水を、我らに与え、示したまえ」

 精霊達の気配を感じることができないエルクディアにさえ、風と水が「鳴いた」のが分かった。クロードの言葉をシエラが追う。僅かにつっかえながら紡がれていく神言を受けて、足元の水が魚のように跳ねた。

「<今しばしここにとどまり、清廉な風を、清浄な水を! 我らに与え、示したまえっ!>」

 びゅお、瞬く間に吹き抜けた風がエルクディアの背を押し、部屋の入口でしゃがんでいたルチアの髪を乱した。水の間の中はなんら変化がないように見えるが、感じる空気が確かに違う。軽くなったのだろうか。術を行使したシエラ自身、なにが起きたのかよく分かっていないようだった。
 「綺麗」になったその場には、殺気がひどく似合わない。それでも、目の前の少年から流れ出る鮮血が刃を伝う想像を止めることはできなかった。この美しい部屋の中で、赤を散らせたら。散らすだなんて綺麗なものではない。不浄な血が白を汚す様は、どれほど凄惨な光景だろう。

 ――けれど、今のエルクディアはそれを望まずにはいられなかった。
 剣呑に目を細めるファウストが舌を打つ。



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