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 速いだけでは意味がない。ならばどうするか。
 大きく剣を振って薙ぎ払えば、あっさりと相手は距離を置く。そこから出される答えは一つだ。一撃に重みを乗せるため、刃に全体重をかけてくる。その戦法には覚えがあった。
 記憶をなぞるように体を動かす。踏み込んだ刹那、目の前に突き出された切っ先は、案の定一瞬で足元に狙いを変えてきた。足を素早く捌いてかわし、華奢な体躯に捻りを効かせた肘鉄を叩き込む。小さな体は容易く吹き飛び、床を滑って棚に背面からぶつかった。

 ――殺せ。

 身の内で声がする。毒々しいおぞましい声だ。それが自分の声だと気がついたのは、しばらくあとになってからだった。
 目の前の存在がただ憎い。殺したい。苦しめたい。絶望の淵に喘ぐ様が見てみたい。
 体の穢れに泣き寝入りをするような軟さなど持ち合わせていないが、刻み込まれた屈辱はしかと覚えている。感情がいとも簡単に理性を押し切ろうとしている。
 土足で踏み躙られた騎士の誇りが、淀んだ感情を引き起こす。あんな屈辱を与えられるくらいなら、死を選ぶ方がましだった。そうしなかったのは、脳裏に浮かんだあの色を守るためだった。
 あの子がいたから。あの子がいるから、自分はこうして生きている。

「この程度でヴォーツの一番槍を名乗るのか。大したことないんだな」

 本当なら、あの男もこの手で屠ってやるつもりだった。あの首を切り裂いてやりたかった。胸に突き刺さる己の剣を抜いた瞬間、昏い感情が降りてくるのが分かった。
 昇華しきれない思いが体の内側に溜まっていく。

「エルク、早く!!」

 現実に引き戻す声は、いつだって自分の名を呼んでいる。
 そうだ、ここでじっとしているわけにはいかない。とどめを刺したいのはやまやまだったが、ここで仕留めてしまえばベラリオを殺害したのだと叫んで回るようなものだ。それになにより、あの子の前で殺すわけにはいかない。ぞわりと恐怖が背を這う。あの子は、どこまで見ていたのだろう。ぐっと奥歯を噛み締めて、エルクディアはファウストに背を向けた。
 近づく気配は濃厚になっている。追っ手が増えれば面倒なことになるのは変わらない。一時的な興奮状態から解放された体は、再びじくじくとした嫌な痛みを訴えてくる。くそ、と低い呻きが漏れた。

「正門からの正面突破を目指そうか。逃げ切れるならの話だけどっ」
「追っ手の中に名のある将は見えません。それも難しくはないでしょう!」
「そ? さすがに燃やしちゃうわけにはいかないしね、――って、ごめんお嬢さん! 担ぐよ!」

 飛び出してすぐに足がもつれ始めたシエラを見かねて、クロードがひょいっと彼女の体を担ぎ上げる。クロードの後ろを走っていたエルクディアとちょうど向かい合う形になり、猫のような金の瞳が心配そうに見つめてくる。なにか言いたそうだった。舌を噛まないようにと唇を引き結んでいたシエラが、急に目を見開いて叫ぶ。

「後ろっ!」
「なっ……、ッ!」

 突風が脇腹を突く。間一髪で避けた切っ先が、着替えたばかりのシャツに赤い線を描く。足元を掬うように突き出されたそれを避けることに精いっぱいで、まともに剣を構える余裕すらない。
 体勢を崩したところに畳み掛けるように連続突きに襲われ、シエラの悲鳴が回廊に響いた。

「槍? あっちが本命なのかなっ」

 前方から迫ってきた兵士を、クロードがレイピアで切りつけていく。
 あのときの感触からして、確実に肋骨の一本は折れているはずだ。それなのに呼吸一つ乱さず槍を振るう少年の姿に、嫌な汗がエルクディアの額を伝った。
 身の丈以上の槍を危なげなく構えたファウストの次の一手を読もうとみぞおちに意識を向けても、ふわりと翻る敷布と速さが相まって動きが見えない。

「く、――うあっ!」
「エルクっ!」
「ヴォーツが一番槍と言ったはずだ。……剣は扱いづらい。おまえ、よくそんなものを振り回せるな」

 呆れと感心の入り混じった声だった。一度引いたのは、槍の長距離攻撃に最適な間合いを取るためだとすぐに分かった。逃げるか、詰めるか。迷っている暇すらない。
 ファウストは全身を使って踊るように槍を振るった。槍の下部を床に突き立て、勢いを利用して跳躍し、持ち手を刃に近づけて首を狙う。かと思えば踵を返して足を払い、脛を狙って突きが繰り出される。
 疲弊しきったこの体では、その攻撃をかわし、防ぐことで手一杯だ。攻撃範囲から考えて、今は退いた方が賢明だろう。殺せ殺せと呪詛を吐く己を封じ、エルクディアはほぼ後ろ向きのまま、クロードに従うように回廊をひた駆けた。
 ファウストの槍が肌を掠めるたびに、シエラがひっと悲鳴を上げる。
 ひたすらに攻撃をかわすことだけに集中していると、クロードが焦れたようにエルクディアを呼んだ。意識はファウストに向けたまま目だけで振り向くと、回廊の曲がり角が目前に迫っている。

「ああもうっ、これじゃキリがない! 騎士長さん、飛べる!?」

 息を呑んだのはシエラだった。幾重にも重なった足音の中、言葉の意味をいち早く汲み取ったファウストが廊下を蹴って距離を詰める。槍の切っ先を剣で弾くのと同時に、エルクディアは大きく声を張り上げた。


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