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「お人形にはぴったりだもんな、三男坊は。――ん?」
「どうした。異常でもあったか?」
「ああ、いや……。今、あっちになんかいたような気がして」
ふと視線を戻した兵士は、回廊の向こうからやってくる仲間の姿を見つけて、日の傾きを確かめた。
交代の時間は少し遅れている。
「おい、なにちんたらしてんだよ。さっさと走れっつの」
「おっと、それは失礼」
妙に芝居がかった口調で駆けてきた兵士の声に、覚えはない。はっとして剣を抜き放つ直前、僅かに覗いた刀身に真紅の炎が宿った。ぼっと音を立てたそれに驚き、手を離した瞬間に喉に衝撃が走り、意識が飛ぶ。
げほ、と呻いた一人が膝を折ったのと同時に、もう一人の全身を炎が包み込んだ。
「うぎゃああっ!」
「うっ、ぁあああっああああああああ!」
反射的に飛び出た悲鳴を覆うように、炎が喉に滑り込む。めらめらと燃え盛るそれは柔らかい粘膜を焼き尽くすかのように思えたが、男は痛みを感じぬそれに目を瞠った。
熱くない。痛みもなにも感じない、ただの幻影だと気がついたときには目の前に暗い赤が迫っていた。それが何者かの瞳だと気づくも、腹部を襲った打撃によって視界が眩む。
息が詰まったそのときには、もう頭を強く床に打ちつけていた。動けなくなった兵士二人を避けるように跳ね、暑苦しそうに襟をくつろげた男が柱の陰を見て笑った。
「もう大丈夫だよ。出ておいで、お嬢さん」
ぐったりと転がる兵士らの姿に、シエラは瞬きすら忘れてその場に座り込んでいた。
彼らを包み込んだ炎は、遠目に見ても本物のそれだった。大きく開かれた口にするりと滑り込み、蛇のように口腔を這うそれは意思を持って動いているかのようだった。
肉を焦がす臭いも確かに感じたのだ。けれど、今シエラの前に転がっている兵士達は綺麗なままだ。鍛え上げられた肌に生々しい火傷の痕は見えず、甲冑も煤一つついていない。
それもそうだと気がついたのは、手を差し伸べてきたクロードの癖の強い髪を見たときだ。兵士の服装で偽っていても彼の胸元にはロザリオが揺れているし、染め粉で黒く変えられた髪は、本来はライナ達と同じ銀色をしている。
――聖職者の力は、人を傷つけられない。
悪意を持って使用した力は己に返ってくる。その力は相手を傷つけることなく、代償を伴って己を蝕む。それが聖職者に与えられた力の大原則だ。それは聖職者である限り、誰も破ることはできない禁忌だった。
だから、クロードがいかに炎術に秀でていたとしても、その力で人間を攻撃することは不可能だ。
放心状態のシエラを起こすと、クロードは軽々と兵士らを両脇に抱えて速やかに柱の陰へ移動した。昏倒している兵士を手早く拘束し、轡もしっかりと噛ませて声を封じる。あまりに手慣れた様子に、彼は本当にアスラナの聖職者かと疑ってしまうほどだ。
「さてと。彼らをどこかに隠して、騎士長さんを助けに行きましょうかね」
「エルクの居場所、分かるのか」
「うん。小耳に挟んだ情報によると、地下牢に閉じ込められているみたいだよ。オレとは違う場所だから、少し探す必要があるだろうけど。でも、うん。案の定殺されはしていないみたいだし、気配での捜索はちびちゃんの方が得意かな?」
シエラの肩で、テュールが小さく返事をする。
フェリクスやベラリオと比較すれば細身の体躯で、クロードは二人の兵士を抱えて素早く回廊を進む。手頃な物置部屋にあった樽の中に二人を押し込み、蓋をして上に別の樽を乗せた。これでしばらくは追っ手を防ぐことができるだろう。
「お前の炎は、本物のように見えた。……本当に焼いたのかと思ったぞ」
一瞬にして目の前を赤が占拠した。あの光景が今も目に焼き付いている。
地下に向かう途中でそう零せば、クロードがきょとんとして視線をシエラに向け、小さく吹き出して胸元のロザリオをいじった。
「まあ、本当に焼いちゃってもよかったんだけどねえ」
あまりにも自然に吐き出された言葉に、全身が怖気立った。地下へ降りる螺旋階段の壁に取り付けられたランプが、クロードの横顔をゆらゆらと照らし出している。
クロード・ラフォンは、アスラナでも評価の高い祓魔師だ。シエラはあまり面識がなかったが、ライナがよく世話になったと聞いている。
神炎のクロードという二つ名が表しているように、彼は火霊との相性がよく、得意とする神言も炎にまつわるものだ。高位の魔物であっても瞬時に焼き尽くす神の炎。そう謳われていたはずだ。噂は何度も聞いている。ライナだって「クロード神父は本当に素敵な方です」と言っていた。
だが。うっすらと浮かべられたその笑みと、あのとき見たあの炎はまるで、地獄の使者が操る業火のようだった。
人を呑み、喉を焼き、骨を溶かす。そんなことができるはずもないと分かっているのに、足が竦んだ。
どくどくとうるさい心臓にロザリオを押し当て、シエラは震える声を喉の奥から引っ張り出した。「なにを……」血の気が引いているのが自分でも分かる。血が流れる様は何度も見た。目の前で、失いたくない人が傷つくのを見た。仲間と呼べる人達が傷つき、血を流していく様はとても恐ろしかった。
だが、仲間と呼べる人がこうもあっさりと誰かを傷つけ、笑う様を見たのは初めてだった。エルクディアは人を斬る。オーギュストもフェリクスもそれは同じだ。
分かっていたはずのことが、今更ながらに恐ろしくなった。
足を止めたシエラを見て、クロードが困ったように眉尻を下げる。
「ねえ、お嬢さん。知っているかな。人ってね、あっけなく死んでいくんだよ」
狭い通路に響く声はとても静かで、何気ない日常会話のような気軽さで放たれた。
「怖い?」
咄嗟に答えることができなかった。答えは怖いの一択でしかなかったのに、シエラの舌は枯れ木のように動かなくなっていた。それでもクロードは声を聞いたかのように続ける。ぎこちなくなったシエラの手を取り、転ばぬように一歩ずつ確かめながら階段を下りていく。