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「――なにをしている」
「……少し動いてるだけだよ。僕が一人じゃ逃げられないことくらい、君達も分かっているでしょう?」
「まあそれもそうだな」

 くつくつと笑い、見張りは再び居住まいを正した。
 その顔や声に覚えはない。それもそうかと息を吐き、シルディは壁をなぞっていく。しばらくそれを続けていると、寝台の脇――ちょうど膝の辺りで、指先に不自然な凹凸を感じた。どくりと音を立てた胸を押さえつつ、必死で凹凸を指でなぞる。

「…………やっぱり」

 小さな呟きは見張りに届かなかったらしい。脱力したまま寝台に寝転がる。目を閉じたところで、見えていた光景とさほど変わらなかった。
 レンツォ。優秀な秘書官の名を口の中で転がした。不安が押し寄せてくる。
 彼は今、どこでなにをしているのだろう。
 事態を把握し、もうすでに動き出している頃だとは思う。けれど、それが誰のために動いているのか、正直なところ確信が持てない。
 ――信頼はしている。シルディは彼ほど優秀な男を他に知らない。
 けれど、彼が仕えているのはこの国だ。レンツォ・ウィズが心から愛しているのは、ホーリーという国そのものなのだ。

『私は、この国を導く者に力を捧げます。どうぞ、そのつもりで』

 白露宮を離れ、ディルートに移ったシルディに一番初めに告げた言葉がそれだった。三人の王子達がそれぞれの領土を任されることになったあの日、中央の何人かの役人がそれぞれの王子に付き従うことになった。文官も武官も、皆が思い思いの王子に付く。レンツォ・ウィズは、中央に残るはずだった。
 だが彼は、誰にも手を取られることなく微苦笑を浮かべ続けていたシルディの前に立ち、恭しく膝を折ったのだ。それには誰もが驚いた。レンツォ・ウィズは、中央に残るものとばかり思われていたからだ。そしてなにより、優秀な彼が第三王子に付くことが意外としか言いようがなかった。
 他の文官に「吠え面かくなよ」と豪語してシルディに付き従ったレンツォだが、もしもシルディに国を導く力がないと判断すれば、容易に手を離すだろう。彼が望む未来は、ホーリーの未来なのだから。
 喉が乾く。頭が痛い。

「……大丈夫だよね。だって、レンツォだもの」

 大丈夫だよ。
 だって、僕はシルディ・ラティエだから。

「……ねえ、少し聞いてもいい?」

 声を張り、シルディは見張りの兵士へ呼びかけた。疲れきった顔には、ふわりとした微笑が乗っている。

「君、ホーリーの人間じゃないよね。誰に頼まれたの?」


 シルディ・ラティエ。
 聖なる国の民として、最後まで胸を張り続けよう。


+ + +


 
 覚えていますか、あの日のことを。
 あの日、世界は私を裏切った。


+ + +



「ん……っ」

 牢の中は湿った風が吹いていた。それでも船室よりは揺れもなく、過ごしやすいと言えば過ごしやすい。石床にはぼろぼろの絨毯が敷かれ、あちこちに血や嘔吐の跡が見られたが、それに嫌悪している余裕はなかった。
 鉄格子の向こう側で槍を構えている女は、身につけた簡易鎧に鮫の紋章を彫っている。それがこの城のヴォーツ兵団を示しているということは、シエラにも容易に分かった。
 なぜ船で危機を乗り越えた自分が、こんなところでまたしても捕らえられているのか。
 すべては、あの祓魔師の言葉から始まった。




 クロードは言った。「進むか退くか」それがなにを意味しているのかくらい、無知なシエラにも理解できた。癖の強い銀髪をいじりもって、クロードは満身創痍のエルクディアに目を向ける。

「たぶん、君達は行くって言うんだろうけど。でもねえ、それだとすこーし、騎士長さんが危険かなあ」
「どういうことだ?」
「知ってるよね、騎士長さん。ベラリオ王子のウワサ。――それでも覚悟はある?」

 シエラを無視してエルクディアに投げられた言葉に、彼は静かに頷いた。その新緑の瞳に迷いはない。

「だから、どういう……」
「お嬢さん。このクロード・ラフォンに、提案が。……このままあえて捕まって、牢屋にぶち込まれるというのはどうかな?」
「はあ? 折角自由になったのに、そんなことができるわけないだろう!」
「けれど捕まらないと城には入れない。なんたってここはホーリーだ。難攻不落の城が集まる、最高の防衛力を持った国だよ。それに、捕まったついでに直接ベラリオ王子やその側近から、有益な情報を得られるかもしれない」

 それをたった三人と一匹で侵入するのは不可能だ。クロードは苦笑する。
 もしもエルクディアの体調が万全なら。もしもテュールの力が自由に使えたら。いくつものもしもは、けして現実にはならない。

「だいじょーぶ。捕まったって殺されやしない。君達は最高の人質だからねえ。たぶん、お嬢さんは乱暴なことはされないよ」
「……エルクは」
「俺の心配はいらない。多少の雑な扱いにはフェリクスやオーグ師匠で慣れてるから」
「比べものになるか、そんなものっ!!」

 痛々しい傷を残した顔で微笑むエルクディアに、どうしようもなく腹が立った。どうして笑う。つらいだろうに、どうして。
 かさついた指先に目尻を撫でられ、そっと引き寄せられた。金髪が僅かに湿っていると気がついたのは、そのときだ。

「大丈夫だから。俺は死なないよ。死ねるわけないだろ? お前を守るって決めたのに」

 ライナ達を助けたい。けれど、傷つくと分かっていて進むのは怖い。自分が。そして、それ以上に、目の前にいる誰かが。
 人の痛みは分からない。想像できても、それは自分が感じている痛みとはまったくの別物かもしれない。苦しんでいる相手にかける言葉が分からない。分からない痛みを与えることが、恐ろしい。
 震えるシエラの体を、エルクディアが強く掻き抱く。息が詰まった。胸が苦しい。クロードが窓の外へ視線を逸らすのが見えた。

「……大丈夫だから。信じろ、シエラ」

 ライナ達を助けよう。
 その一言に、シエラは迷いながらも頷いたのだ。離れていったぬくもりに、不安を覚える。
 それでも、汚れた蒼い髪をなびかせて、シエラは一人で立っていた。




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