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*第20話
シャボン玉が一つ、空を泳いだ。
冷えた塔の中に、不似合いな明るい歌声が朗々と響く。日差しが小さな窓から差し込んでくる塔の中は薄暗いが、ランプが必要なほどではなかった。軽やかな歌声が冷たい石壁にぶつかり、何度も跳ねて反響する。
歌声の主である少女のつま先が、薄い絨毯をとんっと叩く。窓辺の花に水をやり、一人で暮らす分には十分な広さのあるその部屋の中で、彼女は自由気ままに過ごしていた。
「ふふんふ〜ん、……あら? あらあらあらぁ〜?」
突如として、パリンッと音を立てて、机の上に置いてあった水晶の玉が砕けた。元は美しく、赤子の頭ほどの大きさのものだったそれは、今は砂のように細かく砕け散っている。僅かな光を受けてきらきらと輝くそれは星のようでもあったが、鋭利な欠片が血を誘っているようにも見えた。
あらぁ。少女が間延びした声を上げて、机に指を這わせた。
「雨涙の魔女は、戦うのは苦手だと聞いていたのだけれどぉ〜?」
雨涙の魔女。そう呼ばれる人物と顔を合わせたのは、もう何十年前のことだろう。
指先についた水晶の粉をぺろりと舐め、彼女は妖しく笑う。ふわふわとしたアプリコット色の髪は頭の高い位置で二つに結われており、彼女の両耳を覆い隠していた。大きな垂れ目がちの瞳は、青みがかった灰色だ。まるで目が開いたばかりの子猫を思わせるその色に、見る者の庇護欲がそそられる。
どう見積もっても十代前半の愛くるしい少女だが、彼女はその愛らしさとは吊り合わない妖艶な笑みを浮かべて、勢いよく窓を開け放った。細腕に込められた力はそう強くはなさそうだったのに、窓は強力の男に弾かれたように外へ開く。
びゅお、と一気に吹き込んでくる風によって、ふわふわとした髪が煽られる。波打つ髪からちらと覗いた耳は、先がつんと尖っていた。
「生意気なねこさんがいらっしゃるのかしら〜?」
どこか曇っているように見える空は、これでいて晴れている。埃っぽい空気を気にした風もなく、少女は大きく深呼吸をする。
扉を叩く音とほぼ同時に滑り込んできたのは、どこにでもいそうな細身の貴婦人だった。
「随分と楽しそうね、レティシア。なにかあったの?」
「ご機嫌麗しゅう、アマーリエさま〜。んふふ〜、楽しいことなら、たーくさんございますわ〜」
「たとえば?」と聞きながら、アマーリエが大きな椅子に腰掛ける。とんっと軽く床を蹴って跳ね上がった少女レティシアが、部屋の隅にあった置物にしがみついた。布を被せたそれは大きく、大人の男性ほどもある。覆い隠すように被せられていた灰色の布を、彼女は微笑と共に取り去った。
「お人形さんがぁ、やっと完成しましたの〜」
布の下から現れたのは、人であった。――いや、そう見えるだけで、人とは大きくかけ離れている。
生気のないうつろな瞳は、曇ったガラス玉をそのまま填め込んだかのようで不気味だ。血の気の通っていない肌の色をしているくせに、しわの一つ一つが緻密に再現されたそれは、文字通り人形だった。
今にも動き出しそうな精巧さを持っているが、そこに命は感じられない。ただ忠実に人を模したそれに、アマーリエは小さく息を吐いた。
「そう。それで、どうするつもりなの?」
「まだ未定ですわぁ〜。雨涙の魔女ですこぉし試させていただいたのですけれどぉ、壊されてしまったみたいですし〜」
まだまだ改良が必要ですわぁ。
屈託のない笑みで、レティシアが人形の胸に口づける。
「そぉいえばアマーリエさま〜、いま、ゲートさま達はどちらに〜?」
微笑むだけでアマーリエは答えない。レティシアも答えを求めていなかったのか、それ以上尋ねることはなく鼻歌を歌い続けた。
外は晴れているのに、曇っている。
それがこの国の特徴だ。
「準備は順調?」
「ええ、バッチリですわ〜」
「そう。なら期待しているわ。……ところで、レティシア、一つ聞いてもいいかしら」
「なんなりと〜」
アマーリエは空っぽの人形を見つめながら言った。
「貴方、神を信じる?」
「……もちろんですわぁ」
レティシアの指先に、淡い光の球が生まれる。徐々に大きくなったそれはやがて弾け、多くのシャボン玉となって部屋中に漂った。
幻想的なその景色の中で、彼女は満面の笑みを浮かべる。今が最もしあわせだというような表情は、愛らしく――けれど、どこかぞっとしない印象を受けた。
冷ややかな空気が部屋に足元から這い上がってくる。
「神は我らが母であり、父。すべてを抱いた存在ですもの〜。わたくし達にとっては、なくてはならない存在ですわ〜」
世界に溢れる精霊も、魔法元素も。すべては神が生み出した。幻獣は神の望む姿で生まれた。ゆえに、彼らは皆一様にして美しい姿を持っている。
柔らかな翼を持って生まれた有翼人の多くは、神族の血脈にある。
この世界は、紛れもなく神が支えている。
神がなければ世界はない。
「……ですけれどぉ、わたくしは神と生きようとは思いませんの〜」
ベスティアの地で、魔女が笑った。
+ + + ――困ったなあ。
暗く冷たい石牢の中で、シルディはいくつもの足音を聞きながら息苦しさに耐えていた。
明かり採り用の窓はなく、小さな燭台だけが光を放っている。見張りの兵士もどこか息苦しそうだ。途中まで目隠しをされていたせいで、ここがどこの地下牢なのかも分からない。目を凝らして兵士の鎧や剣の装飾を見ようと試みたが、誰もが身分を示すようなものを身につけていなかった。
どの軍に属してる者か分からない。イルカでも鮫でも、はたまた海鳥でもない。徹底して素性を明かさぬように指令がなされているらしい。
通常は何人も押し込められるであろう広い牢の中で、シルディは一人閉じ込められていた。クレメンティアはいない。途中で彼女の声が聞こえなくなった。聖職者としての武器、声を封じられたのだろう。
情けなさや怒り、不安がない交ぜになって、胸を波立たせる。
膝を抱えてうずくまることができれば、楽だったろう。けれどそうしようとすると、必ず脳内で彼女の声がよみがえるのだ。「しっかりして下さい、まったく」叱咤する声が顔を上げさせる。震える体を支えてくれる。
シルディは乾いた唇を舐め、暗く冷たい石壁に手を添えた。