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*第19話


 思っていたよりも、闇は恐ろしくなかった。目を開けてみれば、そこにはなんてことはない世界が広がっていた。これは眠りに落ち、夢を見る前の光景と変わらない。伸ばした手の先も見えなければ、自分の足先だって見えないが、それはあの心地よいまどろみの中にいるときだって同じだ。不思議な感覚だった。足元に確かな感覚はないのに、しっかりと立っている。
 暗闇の中、差し伸べられる手があった。それは見えていたのか、それともただそう感じていただけなのか、今となっては分からない。だが、手は確かにこちらに伸ばされていた。

「――来い」

 背筋の伸びる声だった。遠ざかっていく足音を聞くうちに、あれほど平気だった闇が急に恐ろしくなった。
 待って。必死になって追いかける。心臓が破れそうなほど走って走って走り続け、そしてようやっと、声の主の背に追いついた。

「その命ある限り、俺に従え」

 承諾する理由も、断る理由も、どちらもなかった。
 どうしてその選択をしたのかと問われても、曖昧にしか答えることはできない。明確な理由などない。
 ただ、惹かれたのだ。
 暗闇を迷うことなく歩く、その足に。まっすぐに投げかけられる、その声に。
 限りなく闇に近い存在なのに、光よりも輝くその魂に。
 だから、応えた。

「――はい」


+ + +



 数多くの視線を浴びながら、ラヴァリルは城内を散策していた。鎧を纏った門兵、茶を運ぶ侍女、書物を抱えて歩く文官、きらびやかなドレスを翻す貴婦人達。誰もが深紅の制服に身を包んだラヴァリルに冷ややかな視線を投げ、その背に棘を刺していく。
 中にはぞっとするほど恐ろしい言葉もあり、ラヴァリルはきつく唇を噛み締めた。
 分かっていたことだ。今、彼女が立っている場所は、アスラナ城なのだから。ここは聖職者が実権を握る場所だ。魔導師は異端であり、廃絶されるべき存在なのだ。
 初めから、立場などないに等しい。今までなに不自由なく、ここで暮らしてこられたことが不思議なくらいだ。
 それでもすぐさま魔導師と分かるこの服を着続けているのは、矜持の問題に他ならない。協力はしても、屈するつもりなどない。いくら聖職者優勢の世の中とはいえ、魔物を退治する力を持つのは選ばれた人種だけではない。彼ら自身を神格化してなるものか。

「……意地ばっかりじゃ、なーんにもならないや」

 魔導師の多くは、聖職者を敵視している。それは聖職者側も同じだ。考えの相違が溝を生む。目指すものが似て非なる結果ゆえに、余計に相入れないのかもしれなかった。
 かつり。とある部屋の前でラヴァリルは立ち止まり、そっと辺りを伺った。ついてきていた見張りはさりげなく撒いたはずだ。
 扉に耳を押しつけ、中に誰もいないことを確認して押し開ける。開けた瞬間、風によって埃が舞い上がったのが分かった。中は、古い書物が放つ独特の芳香で溢れていた。
 光を完全に遮る分厚い緞帳により、室内は昼間でも夜のように暗く、どこか不気味だった。
 暗闇の中、ラヴァリルはずらりと並んだ本棚を一列ずつ丁寧に確認していく。背表紙に指を滑らせ、古ぼけた書物の題を一冊ずつ目を通しては、足早に次の本棚へと移るのだ。
 小さな足音と、限りなく押し殺した呼吸音が耳を汚す。いっそすべてを消してしまえたらいいのに。

「あっ……、あった!」

 目当ての本が見つかり、思わず声が飛び出た。それを手に取ろうとした瞬間、明るい光が目を焼く。

「なにを探していたのかな」
「っ! ユーリさん!?」

 分厚い緞帳を開け、明るい日差しの差し込む窓辺に立つ男の姿に、ラヴァリルは目を瞠った。豪奢な法衣を床に垂らし、エメラルドの填め込まれた聖杖を持つ彼は、この国の頂点に君臨する者だ。
 それがどうしてここにいるのだろう。ラヴァリルの心臓が大きく駆け出す。不揃いの銀髪を揺らし、ユーリは静かに微笑んでいた。その視線が手にしている書物に向けられているのを感じ、彼女はさっと後ろ手にそれを隠した。

「ここは立ち入り制限がなされているはずだけれど、いったい誰に許可をもらったのか、教えてもらってもいいかい?」
「あ、あれ、そうだったの? ごめんごめん、あたし知らなくって。つい」
「そう。――つい、ね。つい、わざわざこの北棟第四図書室にまで足を踏み入れてしまった、と」

 アスラナ城の北棟にある第四図書室は、金(ごん)の間と呼ばれている。その大きさは、五ヶ所ある図書室の中で最も小さい。
 それもそのはずだ。金の間には、禁書とされる書物しか保管されていないのだから。


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