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 春になれば、一面黄色で埋め尽くされる丘を知っている。
 それはリーディング村で最後に見た、あの丘だった。湖を眺めながら黄色い花に埋もれ、母や姉の用意した焼き菓子に舌鼓を打つのが春の常で、優しい香りはいつまでも鼻腔に残っている。
 あの花の名前は知らなかったが、今こうして手にしているケリアの花とまったく同じだ。
 そういえば、カイはよくこの花を見て「リアラは最後まで名前を教えてくれなかったんだ」と呟いていた。
 花に詳しいリアラは、村の隅や山に生えている花でさえ見分けて名前を教えてくれた。
 だが何故かこの花の名前は教えようとせず、シエラにもカイにも「自分で調べてごらん」と悪戯っぽく笑って誤魔化していたのだ。他の者に聞けばいいものの、シエラもカイも尋ねる気にはなれず、また調べる気にもなれなかった。
 調べようと思ったところで、先立つものがない。
 教会に置かれている埃だらけの植物事典を開こうにも、古ぼけた白黒の絵柄で判別できるほどの目利きはなかった。

 今年はその花が咲くのを見ずに王都までやってきたせいか、すっかり存在を忘れていた。
 こうして目の前に広がる光景を見て、ようやくシエラは春の到来を知る。
 王都はリーディング村に比べれば北に位置しているのに、花はこちらの方が先に咲くらしい。
 不思議に思っていたら、横から伸びてきた腕がシエラの視界に影を落とした。
 はたと視線を上げれば、視界に入るか入らないかの位置で黄色い花弁が揺れている。
 いつの間にか花を摘んでいたエルクディアが、彼女の頭にそっと挿したからだ。

「この花が気に入ったのか?」
「そういうわけではないが……。村にも同じ花が咲いていたな、と思って」
「へえ。あ、そうそう。ここの花は、周りに神気が多いせいか早咲きなんだよ。世話焼きの神官なんかはちょっとした結界を張って、温室みたいにするくらいでさ。初めて城に来たとき、家にはまだ蕾だった花が咲き乱れてるのを見て驚いた」

 当時の光景を思い出したのか、エルクディアがくつくつと喉を震わせて笑った。それを聞いてシエラはああ、と納得する。
 ほんの僅かに季節の先をゆく城。今更ながらに、次元の異なる世界に来てしまったのではないかと思ってしまった。

「そういえば」

 ぴたりと笑うのをやめて、エルクディアは目元を大層和ませる。
 新緑のそれをじいと見つめるシエラに投げかけられた言葉は、彼女にとっては予想外の言葉だった。

「案外黒も似合うんだな。本当に良家の姫みたいだ」


+ + +



 聖水と呼ばれる水には、二つ種類が存在する。
 一つは、神域から直接湧き出る、自然に浄化された水だ。穢れの及ばない山奥や神殿近くの湖などには、比較的よく存在する。アスラナ王国でも、王都を出た先にある街々の近くにはこのような泉があるのだという。
 もう一つは、聖職者が浄化し、神言により神気を送り込むことによって力をもたらす聖なる水。これは数ある法術の中でも、珍しく全聖職者共通の術である。
 神官と祓魔師、同じ神言でも違う効果をもたらす場合が多いが、聖水を作り出す術においては神言も効果も同じで、まさに聖職者にとっての基本事項といえるだろう。
 この法術さえ習得すれば、たとえ雨水でも聖水に変えることができる。そうなれば魔物と対峙する際とても有利になり、体力と精神力、そして水さえあれば無限の武器、防具を手に入れたも同然なのだ。
 この法術は基本中の基本、基礎中の基礎、というわけで聖職者養成のための王立学院でも一年生のときに教えられる内容だった。
 しかし、聖職者の証を持って生まれた時点で王立学院へと行くことが通例であるが、シエラの場合はこの年になるまで村を出たことが一度もない。
 そのため、当然神言の決まり文句も知っているわけがなく、銀の器に溜められた水を前にしても身動き一つとることができなかった。

「私にどうしろと」

 器と向き合っていたシエラは、水面に映り込む己の姿を見てぽつりと呟く。
 それは自分自身に言ったものではなく、その背後にいるエルクディアへの問いかけだった。
 彼女は台に触れるたびにたぷたぷと波打つ、井戸から汲んできたばかりの水に指を浸しながら考えた。

 聖職者は皆、ロザリオを胸に下げてはいなかっただろうか。
 中心に填められた石は様々だったが、今まで見てきた聖職者は皆が皆ロザリオが胸で揺れていたように思う。となれば、法術を使うにはロザリオが必要なのではないか。
 そういった考えに行き着いただが、彼女はロザリオなど持ってはいない。
 お飾りにならないよう特訓するといったところで、からっきし法術に関しては知識のない者二人が集まったところで時間の無駄だ。
 そういった意味合いも込めて軽くエルクディアをねめつければ、彼は驚いたように目を丸くさせた。



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