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 王都騎士団総隊長――その称号を得るには、武力だけでは不十分だ。敵を欺く知略の持ち主でなければ、その座に着くことは許されない。
 どれほど目の前の男がどこぞの王子のような優男だろうと、彼はこの国一番の騎士だったのだ。駆け引きにはシエラよりも遥かに長けており、心を掴む術においても適いそうにない。
 その見解通り、彼は見事に二の句の告げない言葉を紡いでみせた。

「そうだよな。神の後継者として、この世界を救うために王都へやってきた。だったらもちろん、我侭言ってないで参加するよな?」

 それは疑問系をとっているくせに、答えは一つしか用意されていない問いだった。

「…………一度、だ。ただ一度きりしか、私はそういったものに出る気はない!」
「十分だよ。ありがとう、シエラ」

 そのまま自然な動作でシエラの手を握ったエルクディアは、彼女がなにをされているのか意識するよりも早く手の甲に唇を寄せた。
 手の上に落とされる口付けは敬愛、尊敬の意味を持つ。
 男性が女性に贈る礼儀としても口付けにも関わらず、田舎育ちの彼女にしてみればそれが礼儀だなどと分かるはずもなかった。
 怒りではなく羞恥に頬を染め上げた彼女を見上げて、彼はきょとんと目を丸くさせる。
 今まで確かに頬を染める女性は多々いたが、彼女がこのようなことで動揺する性格だとは思っていなかったのだ。
 金の瞳を零れ落ちそうなくらい見開いてわなわなと唇を震わせる様を見ていると、慣れているはずの挨拶がとても恥ずかしいことのように思え、つられて熱が篭るのを彼は感じた。
 気がつけば長い間手を握られたままの状態にいたシエラは、慌ててその手を振り払う。
 随分と長く感じていたが、実際はもっと短かったのかもしれない。しかし彼女には、その時間がとても長く思えた。
 小さく謝ってくるエルクディアの声を聞こえないふりをしてやり過ごし、火照った顔を隠すように俯く。
 そうすればさらさらと長い髪が零れ落ち、蒼い滝が彼女と外界を遮断する。

「……悪い。慣れてないよな、こんな挨拶。今度から気をつけるよ」
「挨拶、なのか」
「ああ、まあ」

 俯いたままなのでエルクディアの表情は見えないし、彼からもシエラの表情は見えない。
 互いに声だけで相手の様子を窺うことになった状況で、シエラは続けざまに問いかけた。

「一般的、なのか」
「そう……だな。騎士も貴族も、大抵は」

 彼の声はなにかを思い出しているかのようだった。挨拶、という単語に、口付けられた方の手がぴくりと反応する。
 水仕事をしなかったためか、その肌は荒れることもなく、みずみずしく保たれていた。
 王都の人間は口付けを挨拶にするのか――と半ば感心し、一度租借した言葉に胸につかえていた妙なものがすっと消えていくのが分かった。
 手の甲に落とされる唇の感触は、今まで触れてきたなによりもやわらかく、そして暖かかった。
 羽根が触れるようにそっと握られた指先もくすぐったくて、えもいわれぬ恥ずかしさが込み上げてきていたのだが、これが王都式の挨拶ならばなにも恥ずかしがることはないのだ。
 おそらく、これはどの国でもそうなのだろう。
 ならばこの妙な感覚も早まる心臓も、別段気にすることはない。放っておいてもそのうち慣れるだろう、と自己完結させたシエラは促すように吹いてきた風を受けて顔を上げた。
 秀麗な顔立ちに、先ほどまでの朱は残っていない。

「ならいい。気にして損をした。……王都の人間は妙な挨拶をするんだな」

 足元に生えていたケリアの花を、手を伸ばしてそっと撫でた。応えるように揺れた黄色の花に、シエラの表情も緩む。ふわりと届いた甘い芳香に突然記憶が重なり、思わず手に力を込めてしまった。
 手折るつもりなどなかったのに摘んでしまった花を目の前まで持ち上げ、申し訳ない気持ちが胸の中でことりと音を立てる。
 ここまでたくさん咲いているのだから、とも思ったが、種を残すこともできずに萎れていくだけの花を思うと僅かに憐憫の情が生まれた。



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