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*第18話


 神が、揺らぐ。
 声を聞け。
 ――かつて歩んだ道を、忘れるな。


 ルタンシーン神殿の奥、関係者以外の立ち入りが禁じられた祭壇で、蓼の巫女は静かに祈っていた。
 楕円形の室内は、採光用の窓が少ないせいか昼でも薄暗い。高い天井の中央はドーム仕上げになっており、蔦や花の装飾が梁に施されている。柱はどれも太く、重量感がある。小さな呼吸音でさえ、そこでは幾重にも反響した。
 海にほど近い神殿だ。津波の被害に遭っても建物が崩壊しないように、緻密に計算された設計がなされている。ほとんどがらんどうといってもいい造りで、壁沿いの階段を上っていくと、中二階にテラスがある。
 巫女が寝起きするのは別の場所だ。居住区はここよりもずっと狭い建物で、どうしてこうも違うのかと文句を垂れたことがある。
 深藍の絨毯を敷き詰めた床から僅かな振動を感じ取り、巫女は顔を上げた。揺れている。神殿全体が、震えている。

「……はて、地震?」

 奉られているルタンシーン神の石像を見上げ、巫女は裳裾を翻した。
 黄金の杯を覗き込む。小柄な女性であれば、一人丸ごと入ってしまいそうな大きさだ。中では、底の方にほんの少し溜められた聖水が、その水面を揺らしていた。水に映った巫女の顔が、ゆうらりと歪む。

「ルタンシーンさま……?」

 応えはない。
 蓼の巫女には、それが神の拒絶のような気がしてならなかった。

「……この穢れた身に、祈ることのお許しを」

 ディルートの海を守る神は、ホーリーに住まう神々の中で最も影響力が強いと聞く。
 機嫌を損ねることは許されない。

「どうか、……どうか、お許しを」


 ――この命そのものが罪だというのなら、あなたさまに一生を捧げることで償いましょう。


+ + +



 長い眠りから覚めたとき、真っ先に目に飛び込んできたのは、眩しいまでの金髪だった。

「――あっ、リース! 起きた!? リース! せんせぇっ、リースが起きた! 早く、せんせぇ、早く!!」

 ぎゅうぎゅうと手を握られ、指先が軽く痺れているのを自覚した。鼓膜を容赦なく叩き続ける声は、そういえば最近、耳にしていなかった女のものだ。
 それが今にも泣き出しそうに震えていて、あれほど自分の名前しか呼ばなかったその声が、他の誰かを必死に呼んでいる。
 彼女は誰だ。頭の中で、自分の声が一回り低くなってそう問うた。ラヴァリル・ハーネット。腕は確かなのに、頭脳がついてこない馬鹿な女だ。
 そのハーネットがなぜここにいるのだろう。今自分は、ホーリーにいるのではなかったか。そこまで考えて、リースははたと気がついた。違う。今自分がいるのは、ホーリーではなく、アスラナだ。
 僅かに記憶がよみがえる。朝靄がかかり、ゆらゆらと揺り籠のように揺れる場所で見下ろされていたことを、ぼんやりとだが覚えている。屈強な武人によって連れ帰られたのだろう。あれは夢ではなかったのだ。
 うっすらと開けていた瞼が完全に開き、紫水晶の瞳にきゃんきゃん叫び続けるラヴァリルの姿が、はっきりと映った。
 眦に涙を浮かべ、うっすらと鼻水さえ覗かせた女が、そこにいた。

「……ハー、ネット」
「なっ、なに!? どうしたの、リース!」
「うる……、さ、い」
「せんせぇ! リースがうるさいって! 耳鳴りがするって!!」

 うるさいのはお前だと言ってやりたかったが、からからに乾いた喉がひきつってそれは叶わなかった。深夜だったのか、寝着に着替えていた老医師が、眠たそうな目を擦りもってやってくる。
 ラヴァリルをぴしゃりと叱りつけ――その程度で黙る女ではなかったが――、老医師はてきぱきとリースの脈を確かめたり熱を計ったりし、一仕事終えたあとでふうっと肩の力を抜いた。



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