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「フクザツだよなあ、ホント」
「んー?」
「陛下っすよ陛下。なーんかこう、最近ヘンっつーかなんつーか。や、俺は最近のへーかを見たわけじゃないっすけど、話聞いてるとそのー、焦ってるっつーんですか? なんか落ち着かないっつーか。――あ、クロード神父も飲みやす?」
元は独り言だった。背後から急に話しかけられたにも関わらず、学者のような身なりをした男は、驚きもせずに酒を勧めてくる。
今宵の海は珍しく静かで、揺れもほとんど感じられなかった。慣れてしまったとも言えるだろう。
度数の強い酒をちびりと舐め、クロードは甲板から空を見上げた。薄雲が流れ、王都よりも多くの星がきらめいているように見える。
クロードは風に乱された銀髪を払い、ばっさばっさと煽られる外套の裾を押さえた。表が黒で、裏地が赤。普段は黒い山高帽(シルクハット)をかぶっているので、ぱっと見の外見が怪盗のようだと言われることもしばしばだ。
しかし彼は第一級の宮廷祓魔師であり、現在はユーリ直々に命じられた任務を遂行した帰りだった。
王都クラウディオから、南西部のフォ・マセパ地方の港まで、馬車を乗り継ぎ四日。港から目的の島まで、船で三日。島の港から目的地まで徒歩で半日かかるその場所は、特筆すべきことのなさそうな、ありふれた南国の島だった。
自然は文句のつけようがないくらいに美しく、魚も美味かった。だがそれだけだ。平和を形にしたようなあの島で行ったことといえば、ユーリに命じられた通りの調査と、それから、今目の前で酒を浴びるように飲む男を、王都まで連れて帰ってくることくらいなものである。
「ルイド島での暮らしはいかがでしたか、リシャールさん?」
「んー、まあよかったっすよ。水が綺麗だから酒はうまいし、星はばんっばん見れるしで。まあちと難点があるとすりゃ、若いねーちゃんが少ないってことくらいっすわ」
がはは、と豪快に笑って、リシャールはさらに酒を煽る。クロードよりも年かさで自称天文学者の彼は、何年か前から、ルイド島に研究員として派遣されていた。
任務に関わる話は、もうすでに大方聞き終わっている。雑談するのには困らない相手だったので――なにしろ、リシャールは黙ると死んでしまうかのように喋り続ける――、クロードは適度に相槌を打ちながらグラスを傾けていた。
「そーいや、昼間の見やした?」
「昼間……ああ、あの子供が帆柱(マスト)を登っていった?」
「そっすそっす。いっやあ、あのチビすげぇっすよ。こまいのにするする登っていって。……うちの兵士にならねぇか、明日声かけてみるかなぁ」
「怖がらせないようにお願いしますよー?」
「へ? ん、ああ、こんなオヤジが急に声かけたらビビっちまうか! あっははは!」
昼間の一騒動なら、クロードも見ていた。
一人の少女の面紗(ヴェール)が風にさらわれ、帆柱の高いところに引っかかってしまったのだが、小柄な少年が見事に取ってきたのだ。
優れた身体能力には、その場に居合わせた誰もが驚いた。自然と沸き起こった拍手に、少年が照れくさそうにしていたことをよく覚えている。
この船には商人や、多くの観光客が乗っている。彼らもそのうちの一人なのだろう。
「お、別嬪さんはっけーん」
げらげらと笑うリシャールの視線の先には、薔薇色の髪を風に任せた美しい人影があった。似た色の葡萄酒をぐいと飲み干すと、急に酔いが回ったような気がした。
美人を酒の肴にしながら、リシャールはよれよれの胴着(ベスト)をぴっと正す。
「へーかの我儘に付き合わされたんだ。楽しいコトの一つもなきゃやってらんないっすよねぇ、クロード神父?」
「んー、まあ、そうですねえ。それじゃあ、明日にでも声かけに行きましょうか」
「おっ、さっすが神父! 話が分かる!」
ほらほらもっと!
グラスから溢れそうなほどつがれた葡萄酒で乾杯し、二人は一気にそれを腹に流し込んだ。
かっと熱が回る。
冷えた風が労るように首筋を撫で、こめかみに口づけを落としていく。酒ばかりを楽しむ二人に呆れてか、風が誘うように上空に向かって吹き上げた。
つられるようにして顔を上げれば、そこに広がるのは砕けたガラスを散りばめた藍の海だ。
「……海は嫌いなんだけどねぇ」
特に、晴れた日の海は。