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今まで表に出てこなかったその考えは、アビシュメリナの一件で強くなった。明かりの乏しい海の底であの子と離れて、思い知った。
あの子を――神の後継者を守る存在として、自分はあまりにも無力だ。
人が相手ならば、この力は存分に役に立つ。そう思っていた矢先、彼女は人間に襲われた。
汚れた神父服、不自然な長さに切られた美しい髪。自分ではない誰かに守られたことは間違いがないはずなのに、彼女はなにも言おうとしない。
己に対する激しい自己嫌悪や怒り、不安、恐怖、ありとあらゆる感情がごちゃ混ぜになって、まるですべてがあの子のせいであるかのように怒鳴り散らした。
――それが周囲にどのような印象を植え付けるか、考えもしないで。
「あれ、エルクくん?」
「……王子?」
侍女達に比べればどこかぎこちない車輪の音が聞こえていたので、誰かが近づいてきていたのには気がついていた。とはいえ、王子自ら配膳台(ワゴン)を押しているとはさすがに想像していなかったので、エルクディアは純粋に驚いて目を丸くさせた。
それは相手も同じらしい。目が合うなり、シルディは大きめの目をぱちぱちと瞬かせ、ふわりと微笑した。
「ねえ、ちょっとお散歩しない?」
シルディに連れて来られたテラスは、フェリクスの好みそうな装飾で溢れていた。深い藍色の空には、細かいやすりで傷をつけたように星が散らばっている。
少しひやりとした陸風が頬や首筋を撫で、すっかり冷えきっているだろう紅茶の香りをさらってきた。下手をすれば実際の年齢よりも幼く見えそうな王子は、見ていて落ち着かない手つきで紅茶を注ぐ。
「あちゃー、やっぱり冷めてるや」
申し訳なさそうに差し出された紅茶は、予想通り冷たくなっていた。「これじゃあクレメンティア――じゃない、ライナには出せないね」自分の分に口をつけながら、シルディはそんなことを言う。確かにライナは、淹れたての温かい紅茶を好む。
よく知っているなと思った。ライナの生家とラティエ家にはなんらかの関係があるのだろうが、彼女は物心ついた頃からアスラナにいる。たまに帰省しているようだったから、そのときにでも会っていたのだろうか。
気の利いた言葉が見つからず、無言で夜の庭を眺めているだけだったエルクディアに、シルディが「ライナで思い出したんだけど」と切り出した。
「前にレンツォと話してたんだけどね、――あ、レンツォ分かる? 赤毛の秘書官なんだけど――、えっと、あのさ、クレメ、じゃないや、ライナってほんとに僕より年下なのかな? 見た目は年相応なのに『えっ?』って思うときがあるんだよね。逆にシエラちゃんは見た目が大人びてるから、たまーにすごく子供っぽく見えるときがあるんだけど」
意図的かどうかは分からないが、シルディがシエラの名を口にしながら覗き込んできた。その目に悪意はない。だが、裏があるのは明白だった。
案の定、エルクディアの目が泳いだのを見て、シルディは含みを持たせて頷いた。
鈍いだけでは王子など、ましてや領主などやっていけない。ただ鈍いだけの王子ならこの世にわんさといるだろうが、それはただ肩書きを有するだけの者の話だ。
失礼にならない程度に相槌を打つと、彼は空のカップをエルクディアの手からひょいと取り上げて、笑った。
「そういう意味では、君もそうだよね」
「え……?」
「確かライナ達より二つ上でしょ? てことは、僕より一つ年上なわけだ。でも、ほんとに? あ、老けてるとか、誤魔化してるとか、そういう意味じゃないよ。そうじゃなくて、本当に僕より一年長くしか生きてないのかなーって、思うんだ」
「あの……王子? 意味がよく……」