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「……ケンカ、した?」
カラカラと近づいてくる車輪の音で気づいていただろうに、ライナは声をかけられて初めて、シルディに気がついたような顔をした。
「聞いていたんですか? 王子が盗み聞きだなんて、感心しませんね」
「残念。なにを言ってたかは聞こえなかったよ。でも、いつもと雰囲気が違ってたから。……なにかあったの?」
背を向けたままのライナは、きっと顔を見られたくないのだろう。シルディはそのままワゴンにもたれ、彼女の言葉を待った。
なにも言うつもりはなかったのだろう。彼女はしばらくシルディの存在を無視し続けていたが、彼が立ち去る気配を見せないと知ると、ぽつぽつと語り始めた。
シエラはなにも分かっていない。
罪禍の聖人がどれほどの危険性をはらんでいるか、人間が魔に墜ちるとはどういうことか。彼女はなにも、分かってはいないのだ。
ライナにとって、いや、世界にとって、シエラはなによりも大切な存在なのだ。大地を照らし続ける、たった一つの太陽や月のように。美しい清流のように。香りを運ぶ花々のように。だから、危険と分かっていて近づけることなどできない。
それに、リース・シャイリーは魔導師だ。彼がそうだとは言えないが、魔導師の中には単に暴力を好む者もいる。
シエラは彼が自分に向けていた憎悪を知っているはずなのに、それでも、彼は安全だと言う。そうまで庇うほど仲を深めていたわけでもないのに、彼の味方をするのだ。
ライナは、それが理解できないと言った。
「……クレメンティアの考えが間違ってるとは思わないよ。罪禍の聖人が危険なのは僕も知ってるし、魔導師と聖職者の仲がよくないのも知ってる。だけど、シエラちゃんの言うことも、もっともなんじゃないかなあ?」
ライナは少し潔癖すぎる節がある。もう少し視野を広げてみれば、もっと違う世界が見えるのではないか。
そう思って「ねえ、クレメンティア」と優しく呼びかけたシルディは、肩に置いた手を瞬時に振り払われた。
「わたっ、わたしは! わたしは、『ライナ』ですっ!!」
震える声で、滲んだ瞳で、縋るようにロザリオを握りしめたライナは、きつくシルディを睨んで走り去っていった。
振り払われた手が、じんじんとかすかな熱を帯びて疼きだす。
唖然としたままシルディはその場に座り込み、癖の強い髪をくしゃりと掻き混ぜた。
「あーあー……、やっちゃったなー。……女心って、ほんっとむずかしいや」
ライナ・メイデン。
それは、彼女が聖職者であることを誓った名。
+ + + 触れ合った指先の儚さに、ただ、咽ぶ。
あの子がいないと分かったとき、月並みな表現だが、心臓が凍りつくかと思った。さっと血の気が引き、激しい後悔と焦りが全身に回る。
離れるんじゃなかった。もう離れないと約束したのに。なのにどうして、自分は目を離したのか。
結局のところ、自分は未だに与えられた使命というものを、正しく理解できていないのだろう。
守りたい。――それが使命感から生じている感情かどうか、今となっては正直よく分からない。
あの子の自由は尊重したい。感情も優先させたい。けれど、本当に守りたいのなら、危険が及ばぬようにどこか安全な場所に閉じ込めて、ずっと隠しておけばいいのではないかとさえ、考えてしまう。