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 言い淀んだそのとき、男の肩越しに緑色の屋根が見えた。窓からひらひらと洗濯物が踊っているあの建物には、見覚えがある。あの建物の下で、焼き鳥を買ったのだから。
 にやつく男を下からまっすぐに見据えて、シエラは得意げに鼻を鳴らした。

「分かる。迷子扱いするな」
「そりゃあ悪かったな。続けて悪いが、こっちにも事情があってな。送ってやれる暇はねえ。気をつけて帰れよ」

 ぐしゃぐしゃとシエラの頭を乱暴に撫で回す手は大きく、ごつごつとしていた。わずかに香ばしい焼き魚のにおいがして、彼の昼食が容易に想像できた。
 明らかに子供に対するようなそれに気恥ずかしくなって払いのければ、彼はさらに強く頭を掻き回してくる。

「やめろっ、離せ!」
「――おっと、さっそく迎えがきたみてえだな」

 迎え?
 彼の視線を追った先には、汗だくになりながら駆けてくる金色の影が見え隠れしていた。人混みを掻き分け、彼はあちこちの路地や店を覗いている。
 鳥の巣のようになってしまったシエラの頭を、今度はぽんっと軽く叩いて男は踵を返した。またしても頭巾を被り、その顔は隠されてしまう。

「なあ、嬢ちゃん。もしなんか聞かれても、黙っててくれねえか? 助けてやった礼に、な?」
「その言い方……。追われているのか?」
「まあな」

 だからあれほど辺りを気にしていたのだろうか。
 どうして追われてるのかと聞きたかったが、どうせ彼は答えないだろう。それに、すぐそこまでエルクディアが来ているから、そんな暇すらないだろう。

「私も戻る。助けてくれて、その、なんだ。……あり、がとう」

 ありがとうと言うことがどうにも気恥ずかしくて、最後は消え入りそうな声になってしまった。それでも十分聞こえたようだ。
 彼は小さく笑って、ひらりと手を振った。

「おう、じゃあな」

 外套の裾を翻し、男は器用に人波を泳いでいく。
 ふいに後ろから肩を強く掴まれたときには、もうすでに彼の姿は見えなくなっていた。
 恐る恐る振り返ると、憤怒と疲労で言い表せない表情になっているエルクディアが、人を殺せそうな目でシエラを見下ろしている。

「あ……」
「――やっと、見つけた」

 どこかで聞いた台詞なのに、ぞわっと全身の毛穴が開くような寒気を感じる。

「言い訳は、あとで、聞く。とりあえず、城に、戻るぞ。話は、それから、だ」

 息切れしているわけでもないのに途切れ途切れの言葉は、怒りを爆発させまいとしているせいだ。
 怒っている。それはもう、とてつもなく。
 がっちりと拘束するように腕を組まれ、引きずられるようにして城へ連行されていく。一言でも口を聞こうとすれば、かつてないほど鋭い眼光で一睨みされ、押し黙るより他にない。
 この上襲われた話などしたら、いったいどれほど面倒なことになるのだろう。急激に重たくなった足を動かすのに必死になっていたシエラは、遠くから向けられている視線に気がつかなかった。


「……ったく、この国はいろいろ面倒くせーことが多そうだな……」


+ + +



 知らないだけ。
 気づかないだけ。
 見ないだけ。

 神は、いつだってそこにいる。


+ + +



 夜の風が変わった。もうすぐ季節が変わり、凍てつく風が山から下りてくる。
 とはいえホーリーの寒さはアスラナほどではなく、山や海の関係で、地域によっては年中温暖な気候の下過ごすことができる。そうなれば少し我慢すれば海に入ることも可能で、水と生きる民にとってはこの環境は非常にありがたかった。
 シルディの暮らすディルート地方は、その温暖な地域に含まれる。だからタルネット地方に視察に行ったときは、寒さで凍え死ぬかと思ったほどだ。
 同じ国でもこうも違うのかと、そのときはえらく感動した。そして、同時に恐ろしくも思った。このホーリーよりも遥かに大きなアスラナは、どれほどのものなのだろうかと。
 そして今、それを思い出して新たな疑問が生じた。それは果たして、一つの国と言っていいのか。
 他国の王子が考えることではないのかもしれないが、それでも、水面下で様々なことが動き出している現在、考えるなという方が無茶だ。
 ぼんやりと歩いていると、いつもはのほほんとしている侍女達の顔がどこか気遣わしげになっていることに気がついた。彼女達の手元には、紅茶や菓子を乗せた配膳台(ワゴン)がある。
 ああ、と、シルディは苦笑した。



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