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目の前には細い路地が一本通っており、そこを進むと家々の隙間を縫うようにして道がある。大通りへは家の間を抜ければ辿り着くのだろうが、果たしてここまで来る間にこんな道は通っただろうか。
通ったのだろう。現に今、自分はこの場所にいるのだから。
ということは、目の前にある道を突き進めば、あの店に戻れるはずだ。よし、と頷き、シエラは根拠のまったくない自信に満ちた一歩を踏み出したのだった。
しかし、進めど進めど店には辿り着かない。それどころか、海沿いを歩いていたと思ったのに、海すら見えなくなっていた。
狭い路地を行く。足下にはゴミが散らばり、痩せこけた野良猫が力なくうずくまっている。時折見かける物乞いの姿が、表通りの印象とはがらりと変わったことを示していた。
「……もし、そこのお嬢さん」
つんとした悪臭と、唐突にかけられたしゃがれた声に、シエラの肩が小さく跳ねた。足下に目を落とせば、なにやら絵の具らしいものと、薄汚れた画布を広げた男が、ぼろい外套の隙間から彼女を見上げていた。
同じように外套で全身を覆っていても、先ほどの男とは雰囲気がまるで違う。
思わず立ち止まってしまったシエラの足に、男はすがりつくように手を伸ばした。
「お美しいお嬢さん。慈悲を、慈悲をくだせえ。わたしを哀れとお思いなら、どうか、お嬢さんのお姿を描かせてくだせえ」
「……すまないが、私にはそんな時間がない」
「いいえ、スグです。ほんの一瞬です。スグ、です」
お願いします、お願いします、お願いします……。
何度も何度も男は繰り返し、地面に頭をこすりつける。自分よりも遥かに年かさの男のそんな姿を見せられ、シエラはすっかり困り果ててしまった。
無碍にするのは忍びないが、男に払ってやれるだけの金は持ち合わせていない。
シエラの揺らぎを敏感に感じ取ったのか、男は傍らに置いてあった包みに手をさっと伸ばした。
「どうか、わたしの絵を見てくだせえ。――ほうら、美しいでしょう」
「っ――」
「スグです、お嬢さん。スグ。あっという間ですよ。スグです。お嬢さん、スグ」
見せられた画布に広がっていたのは、黒っぽい絵だ。それを絵と呼んでいいのかも分からない。抽象画なのか、赤黒い絵の具で描かれているものが一体なんなのか、微塵も想像がつかなかった。
一つだけ確かなことは、その絵がぞっとするほど恐ろしい感覚を植え付けるということだ。
どろりとした絵。燃え盛る地獄の業火のような、どす黒い色。鼻や口から体内に侵入しようと、虎視眈々と狙っているような得体の知れないなにかが描かれている。
違和感の元だった、妙な神気が一層の強さを増す。後ずさりしたシエラを逃がすまいと、男はにやにやと笑いながら近づいてきた。
「スグです、お嬢さん。ほら、スグです。スグなんですよ。――アナタの血は、もっと美シイ絵が描ける!!」
「ひっ……!」
まずい。
爛々と目を輝かせる男が、胸元から短剣を取り出した。ゆらゆらとそれを揺らしながら、男はシエラににじり寄ってくる。
「よっ、寄るな!」
「スグです、お嬢さん、絵を、スグ。血を、スグ、お嬢さん、スグです。描かせて、あっという間、血を、血を、スグ、絵を」
「来るな! 聞こえないのか、来るなっ!! ――うあっ」
ロザリオを構えるも、人間相手に牽制になるはずもない。
足下の石に躓き尻餅をついたシエラは、痛みと恐怖に全身が強ばるのを自覚した。
相手は人間だ。魔物ではない。それなのに、――いや、それだからこそ、大きすぎる恐怖に押し潰されそうになる。
狂気に染まり、すでに焦点が定まっていない目が、嬉しそうに細められている。ひたひたと近づいてくる男の足取りは決して早いものではないのに、シエラの四肢は動こうとせず、後退は手負いの蟻が進むようなものだった。