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だが、レイニーに無情にも短剣を突き立てた男は、呼吸一つ乱した様子がない。男の手が盾を引き剥がそうとする。それに抵抗するだけの力はなく、攻撃と防御を兼ね備えているはずのそれはあっさりと床に放り出された。
レイニーと男を隔てるものがなくなった今、ぞっとするほど冷たい手が彼女の細首を容赦なく締め上げる。必死で爪を立てて抵抗するも、男が怯む様子は微塵も見せず、喉の圧迫は強くなるばかりだ。
「はっ……あ、……くっ、ん、」
今意識を保っていられるのは、幸か不幸か太股で焼けるような熱を持つ激痛のおかげだ。これがなければとっくに落ちているに違いない。
――殺られる。
敵はレイニーを捕獲するのが目的ではない。殺すのが目的だ。
白濁していく視界の中に、彼女は暗く閉ざされた男の表情を見た。頭巾の奥にあったそれに、生気など欠片もない。
ぞっとするほどに冷たく無機質な、人形のような顔が張り付いているだけだ。ふざけないでよ、とレイニーは臍を噛んだ。
どんなに苦手とはいえ、攻撃魔法がまったく使えないわけではない。変に遠慮して守りに入るのではなく、こんなことなら最初から思い切り攻撃しておけばよかった。
スカーティニアが変だと言った段階で気がつくべきだった。なにも感じなかった段階で、警戒するべきだった。
雨が降っていた。だから浮かれていた。力が満ちるから、大丈夫だと思っていた。そんなものは言い訳でしかない。それもひどく惨めな言い訳だ。
床に転がった盾が、不満そうに気を放っている。だから言ったでしょう、うまく使ってあげられないかもって。レイニーは今にも途切れそうになる意識の中で、周りを飛び交う元素達の声を聞いた。
――風が動く。
男の向こう側には、横たわっていた黒猫の姿が消えていた。もはや笑うだけの力は残っていないが、それでもレイニーは僅かに唇の端を持ち上げる。
男の手にかけていた手を、今度はその顔面を鷲掴むようにして突き出した。
「あんま、り、ナメた真似、しないこと、ね、ボウヤ」
指先に触れた男の肌はあまりにも冷たい。落ちそうになる意識をなんとか保ち、レイニーは笑った。
「ガディア・カッツェ!」
ぼす、と、砂袋を切ったような音を立てて、男の右腕が肩から落ちた。
立て続けに長身の影が踊り、男の腹部に長い足を叩き込んで二階から蹴り落とす。吹き抜けから一階へと落下した男は、悲鳴一つ上げることもなく魔法薬の瓶を薙ぎ倒していった。
急激に取り込まれる酸素についていけず、大きくむせるレイニーの背を、温かい手がさすってくれる。
ようやっと落ち着いた頃、階下からゆっくりと近づいてくる男の足音が響いてきた。
「……ありがと、スカー」
「どうイタしまシテ。悪かッタワネ、すぐに助けてあげられナクテ」
聞き慣れない声。しかし聞き慣れた口調。レイニーよりも頭一つ分以上背の高い人型に変化したスカーティニアが、ふんっと鼻を鳴らして階段を上る男を見据えた。
ゆらゆらと不安定に身を揺らしているが、男は弱った様子が見られない。あれは本当にヒトなのだろうか。
レイニーとスカーティニアが互いに顔を見合わせ、同時に首を振った。
「アタシのチカラを引き出す呪文、忘れテないワヨネ?」
「覚えてるわよ、それくらい。魔法単語の羅列でしょ」
「あーラ。じゃあ期待してるワヨ!」
猫のときと変わらぬ脚力を利用し、スカーティニアが一足飛びで男の前に躍り出る。腰を低くした体勢からの力強い蹴りを腹部に食らい、男の体が宙に投げ出された。
すかさずそれを追ったスカーティニアの肘鉄が、空中だというのに的確に相手の喉を捕らえる。あっという間に男を床に沈めた華麗な体術に関心していると、鋭く一喝されてレイニーは背筋を伸ばした。