7 [ 262/682 ]


「お客さん? 珍しいわね……。なにも視えなかったのに」

 レイニーが艶やかな黒い毛並みを撫でている間も、スカーティニアの耳は小刻みに動き続ける。ひくひくと何度か鼻を動かしてにおいを嗅いでいるようだったが、この雨で感じにくいのだろう。翼を小さく畳んだ黒猫は、ふんっと鼻を鳴らして拗ねたように丸くなった。
 こうしているとただの猫だ。寒さの厳しいアスラナでは、大変役に立つ。
 無論スカーティニアは不満げに、「アタシは湯たンポじゃないノヨ!」と尻尾を膨らませていたけれど。
 煮込み続けた薬もそろそろ完成というところで、控えめに扉が叩かれる。どうぞ、と声をかけたところで、大抵の者は魔女の家の扉を開けることを躊躇う。しかし今日の客人は、レイニーが「どうぞ」を言う前に扉を開けて入ってきた。

「あらあら、ようこそいらっしゃいませ。本日のご用件はいかがなものかしら? よく効く風邪薬傷薬なら銀貨六枚、骨折を治す薬なら銀貨十枚、肺病は金貨二十枚、心臓病は症状により時価となっております」

 水の滴る外套で全身を覆った客人は、扉を閉めないまま戸口に立ち尽くしている。

「その他各薬、このレイニーにお任せあれ。どんな薬でも作ってみせますが、不死の薬と惚れ薬だけはお断りさせていただきます。さて、いかが?」

 毎度の口上に、テーブルに場所を移したスカーティニアが退屈そうに伸びをする。
 たっぷり一呼吸分待ったのだが、相手はなんの反応もせず棒立ちになったままだった。あら、と何度目かの疑問符を飛ばす。
 ――びびって動けなくなっちゃったのかしら。
 別にそれは珍しいことではない。お偉い貴族やらなにやらの使いでやってきた者ならば、本物の魔女とその家の異様さに圧倒されて、気を失う者とていた。
 誰の力も借りず勝手に鍋を掻き回す匙や、紐や鎖もないのに浮かんでいる燭台を見れば、慣れない者なら仕方ないだろう。
 今回もその類かと思ったのだが、それにしては静かすぎる。「もっしもーし」茶化すように声をかけたそのとき、スカーティニアがぎらりと目を光らせて背中の翼を広げた。

「レイニー、気をつけテ。なんかコイツ、変なカンジがスル」
「え? でも、殺気もなにも感じないわ……よ」

 ――なにも感じない。
 自らが発したその一言にレイニーは戦慄した。危険を察知し、手元の薬瓶を投げ放つと同時に、相手が一気に距離を詰めてくる。
 テーブルの上の瓶や壷が倒れ、落ち、耳障りな音を立てて割れていった。スカーティニアが叫ぶ。レイニーは瞬時に踵を返し、螺旋階段へと走った。相手が何者かは分からない。でも、とにかく逃げなくては。
 頭巾(フード)と外套で相手の姿はこれっぽっちも見えないが、身長や身のこなしから考えて男だろう。一声も発しないのが気味悪い。
 階下ではスカーティニアが、男の足止めをするべく奮闘していた。鋭い爪と牙で戦うが、小さな猫の体では限界があるだろう。
 思い切り振り払われ、彼女の体は薬品棚にぶつかり、ガラスの破片と薬品まみれになっている。

「なんなのよっ、どこの誰の手先……!?」

 二階のちょうど中央にある本棚を、震える手で左に動かす。
 邪魔なスカーティニアを戦闘不能状態にした男が、静かに階段を上ってくる。レイニーは手当たり次第に本を投げつけながら、早く早くと恐怖と苛立ちを織り交ぜながら足踏みをしていた。
 魔女の中には戦闘能力が秀でた者もいるが、あいにくレイニーはそれを苦手としている。本棚をずらした隠し扉の向こうにあるのは、そんなレイニーが力を封じ込めた魔法具の保管庫だ。通常は金貨を山のように積んだ人間に貸し出すために用意しているのだが、こういうときには自分が使うことも十分に考慮している。
 だからあくまで貸し出しなのだが、アスラナに来てから襲撃されたことがなかったため、すっかり油断してしまっていた。

「ベスティアのときは三秒で手の届くところに置いてたのに!」

 他でもない自分に怒りをぶつけ、レイニーはやっとできた扉の隙間に滑り込んだ。そして間髪を入れずに、頑丈な扉を閉める。
 保管庫の中は特別な気で満ち溢れていた。久しぶりの主の登場に、ほとんど手入れされていなかった魔法具達が口々に不満を唱える。

「悪かったわね、でも今はアンタ達に構ってられないのよっ!!」

 幾重にも結界を織りなした場所だから、少しくらいは耐えられるだろう。だが長くはもたない。残してきたスカーティニアも心配だ。
 暴れる心臓を鎮めようと、レイニーは大きく深呼吸した。瞼を下ろし、まっすぐに右腕を床とは水平に伸ばす。
 いくつもの雨滴が彼女の周りを守るように現れた。

「エスク・ケルカン・プレ・ヴニール。――来なさい」

 威厳を持って言い放った言葉に、保管庫全体が空気を変えた。次にレイニーが目を開けたとき、その手には奇妙な形の盾が握られていた。
 この盾は、剣身と槍先を備えた特殊なものだ。竜の牙を薄く削って表面に張り付けた盾と、槍状の柄と穂先が中央からまっすぐに固定されており、盾の前面部には裏側から貫いたように剣身がもうけられている。
 この盾を横から見れば、ちょうど「┣」のような形に見えるだろう。



[*prev] [next#]
しおりを挟む


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -