20 [ 241/682 ]


「これで終わ――ッ、な!?」

 ず、と剣先が貫いた感触は、確かに肉のそれだった。だのに、バチ、と刀身が鳴いたそのとき、エルクディアの前には誰も存在しなかった。
 誰もが驚愕に目を瞠る中、その場にそぐわない笑声が頭上から降ってくる。

「ふふっ、はっずれ。……さぁて、ここで皆さんに問題でーす。あのオバサンは、いつからマボロシだったでしょーうか?」
「誰だ!?」
「おねえさん、どこ見てるの? こっちだよ、こーっち。あーあ、随分汚れちゃって。かわいそー。おにいさん、ちゃーんと守ってあげないと。……ま、二人よりぼくのが年上だけど?」
「二人とも伏せてくださいッ!!」

 途端に、歪みを帯びた漆黒の球体が、残像を浮かび上がらせる速さでシエラ達の頭上を通過していった。壁にめり込んだそれが、ズドンと凄まじい音を立てて瓦礫を散らす。
 ライナの声がなければ、今頃あの球体の餌食になっていたに違いない。
 声のする方を見上げるが、高い天井には闇が広がるばかりで、影一つ見えやしない。それはエルクディアとて同じようで、必死に目を凝らしていても相手の姿は確認できそうになかった。

「くそっ! 子供の声……人狼か!?」

 王都を騒がせた双子の人狼(ワーウルフ)を思い出す。彼らも幼い子供の姿をしていたが、魔気を隠すことのできる高位の魔物だった。あの子供もその仲間かと構える。
 しかし、人狼と聞いて声音が変わった。明らかに気分を害したそれに、その場を包む魔気が濃くなる。
 こつり、と背後から靴音が聞こえる。反射的に振り返ると、そこには薄闇の中に浮かび上がる小柄な影があった。
 徐々に近づいてくるそれに対し、エルクディアが身構える。

「ほんっと、あいつらと一緒にされるの嫌い。うざいんだよ。だいたいさー、あのオバサンも調子乗りすぎ。幻術とかそー得意なわけじゃないのに、なーにやってんだか。……ま、ヘラスにめーれーされたから来たにすぎないんだけどさ」
「小童が、余計な、ことを……!!」
「あ、ちょっとオバサン。せっかく助けてあげたのに、なーに出てきてんの? 邪魔だから下がっててよ。――ま、どーせ、今は戦わないけどー」

 ずるずると足を引きずる女は、ぎらぎらとした双眸を天井に向けている。だが女の視線を辿ったところで、シエラの目にはなにも映らなかった。
 小柄な影は、今確かにシエラ達の眼前まで迫ってこようとしているのに、どうして彼女はなにもない天井を見上げているのだろう。そこには闇が広がるばかりで、なにも見えないというのに。

 ――視えない?

「そういうことかっ……! <闇に漂う幻影、真実を現せ!>」
「うわわっ!」

 ぶわりと風が吹き荒れ、粉塵を巻き上げて闇の中を駆け巡る。輪郭をはっきりさせかけていた影は、跡形もなく姿を消した。そしてその代わりに、天井の梁に腰掛ける子供の姿が闇の中に現れる。
 頭にぐるぐると幾重にも布を巻きつけた姿が、今度はシエラの目にはっきりと映った。
 あれほどの魔気を放っておいて、この『眼』が反応しないはずがない。どこからがどういうわけだったのかは検討もつかないが、実際目にしていた子供の姿は幻影だったのだ。
 幻を見せられていたから、それが本物だと思い込んでしまい、本体の方に意識を向けることができなくなっていたのだろう。
 くるくると猫のように空中で体を回転させ、子供が天井から降ってくる。軽やかに女の前に降り立った子供は、突風に煽られてたなびく頭の布を取り払った。

「お前っ、あの船の……!」
「おにいさん、だいせーかい。覚えていてくれたなんて嬉しいなー。おねえさんの方は忘れちゃった? 後ろの神官さんと王子様は初めまして、だよね?」

 幾重にも巻きつけられた布がなくなれば、そこにはまだあどけなささえ残す少年の顔立ちが現れる。薄汚れた船員の服を纏う少年は、確かにここに来るまでの船で出会った少年だった。
 見た目は十代前半といったところだろうか。双子の人狼よりも大きいが、セルラーシャよりは幼く見える。だが魔物の実力は見た目に現れない。たとえ子供の姿をしていても、人間の大人を優に上回る力を持っているのだ。
 そこで天啓を受けたかのように、はたと気づく。だからあのとき、訳も分からず恐怖を覚えたのだ。目の前の子供が、ただの子供ではないと本能が警告していたに違いない。
 砂を噛む思いのシエラを馬鹿にするように笑い、少年は女の傷だらけの腕に自らの腕を絡めた。

「ぼくのことは、ヒューって呼んで? こっちのオバサンは……ま、名乗らなくてもいっか。どーせ、そこのメガネくんが知ってるだろうから」

 名乗りはしたが、真名ではないのだろう。ヒューが軽く手を振ると、彼らの足元にぱっくりと穴が空いた。虫の羽音のような音を立て、徐々に黒い穴が広がり始める。
 ――転移。誰ともなしに呟いて、シエラとエルクディアが反射的に飛び出す。

「逃がすか、よっ!!」
「<聖鎖、聖縛、神速をもってかの魔を追い捕らえよ!>」
「無駄だよ。――イルシオ!」

 ぱちん、とヒューが指を弾く。
 シエラの放った光の帯が彼らの足元に届く直前、雁首を返して勢いよくエルクディアの長剣に絡みついた。腕ごと持っていかれそうになる勢いに、エルクディアの体勢が崩れる。

「言ったでしょ、もう戦う気なんてないんだって。ほんとは、顔見るだけで殺せなんて言われてないんだもん。オバサンも、ヘラスに逆らう気なんてないよね?」
「ぐっ……」
「お前達になくとも、私にはある!」

 ざ、と勢いよく砂塵が形を成してヒューへ襲い掛かる。

「おっと! あっぶないなー。躾がなってないんじゃないのー? 砂での攻撃って、なんか庶民的だし。おにいさん、騎士長なんだったら教えてあげなよ。勝負には深追いが禁物な場合もある――ってね。……ま、それで潰れてくれた方が、楽っちゃ楽なんだけど」

 瓦礫や砂を駆使した法術を難なく交わし、ヒューは苦い顔の女を連れてゆっくりと穴に沈んでいく。別次元に呑まれていく彼らを追おうと足を踏み出したシエラを、ライナの叱声とエルクディアの手が引き止めた。
 鳩尾まで闇に浸かったヒューが、つやつやとした顔に満面の笑みを浮かべて言う。

「そーそー、えらーい。分からず屋にはとびっきりの悪夢をあげようかとも思ったんだけど、必要ないみたいだね。ちょっと残念かも。……ま、次があるか。ねー、オバサン?」



[*prev] [next#]
しおりを挟む


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -