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「黙りおれ! くっ……、そなたの邪魔がなければ、かような虫けら共などわらわが殲滅しておったわ!」
呆れ顔のヒューが次元に消えても、女はまだ青白い顔を覗かせていた。ぎっと強くこちらを睨み、シエラに向かって牙を剥く。
「覚えておれ、青虫! そなたらは所詮傀儡! わらわが屠ってくれるわっ!!」
怒号と共に姿が掻き消え、地面に空いていた黒い穴が瞬時に塞がった。
一切の音が消え、一瞬のうちにその場が静寂に包まれる。風の音も、水の音も聞こえない。耳が痛いくらいの静けさを破ったのは、ずっとシエラの腕を掴んでいたエルクディアがその手を離し、身じろいだ音だった。
ざり、と砂を踏む音がやけに響く。それをきっかけに、ライナの大きな安堵の息、テュールの小さないななき、シルディの安心しきった呟きがとんとんと続いた。
――終わった、のだろうか。
荒れ果てた聖堂内を見て、収まっていたはずの震えがよみがえる。急に体が重さを増した。どっと押し寄せてくる節々の痛みと疲労感に、今にも膝が砕けそうだ。もうなにも考えたくない。
けれどまだ、やることは残っている。リースの安否を確かめようと踵を返したシエラの視界を、再び闇が衝撃を連れて覆い隠した。
「痛っ……! え、な、エルク!?」
傷を負った肩を容赦なく締め付ける、腕の強さに驚く。抱き締められるというよりは、掻き抱かれているという表現の方がぴったりとくる抱擁に気がついたのは、痛みを感じてから三拍ほどしたあとのことだった。
無言でぎゅうぎゅうと掻き抱かれて、ついには呼吸さえ苦しくなる。傷はあちこち痛むし、なによりも汗や血、埃などが混ざった軍服のにおいは強烈だった。
離してくれと訴えても返事すらしないエルクディアに、シエラの脳が好き勝手に暴れ始める。考えなければならないことを放棄して、あっちへこっちへ意識を飛ばしていく。おい、と何度目かの呼びかけで、やっと頭を押さえつけていた手の力が弛んだ。
初めこそなにか言いたげにしていたライナは、今はもうこちらに背を向けてシルディ達の治療に取り掛かっている。
「お前、どうした……? どこか痛むのか?」
一人では立てないほどの怪我でもしたのだろうか。
見上げてみたが、彼の表情は読み取れない。
「……――った」
「え?」
「……よかった、無事で。本当に、よかった……!」
またしてもぐっと強く掻き抱かれる。
息苦しさのあとに感じたのは、どくどくと早鐘を打つ彼の心音だった。
――無事でよかった。
ともすれば泣いているのではないかと思うほどの情けない声に、シエラの眉根にしわが寄る。それは嫌悪や呆れといった感情からくるものではないのだと、彼女はうっすらと自覚していた。
痛い。気遣いなどこれっぽっちも見せず、自分勝手に抱き締めてくるなんてそれでも男かと、不平不満の一つでも言ってやりたくなる。傷口が開いたらどうしてくれるんだ。骨でも折れそうではないか。
大体、守るだなんだと言っておいて、来るのが遅いのだ。竜騎士だなんだと言われておきながら、魔物相手では役に立たないではないか。まったく、これなら優秀な祓魔師が護衛についた方が絶対に傷が少なくて済んだだろう。
魔物が溢れるこの場所で、どうしてただの人間が護衛なのだ。魔物を引き寄せてしまうこの体を守るのが、どうしてただの人間なのだ。
――死んでしまうかも、しれないのに。
「わ、……私、も」
ずっと不安だった。
何度も何度も、闇の中で光を探した。
ここに来てから、数え切れないほどの後悔をした。
「私、も、……お前達が無事で、よかったと、思っている……!」
震えかけた声には気づかれなかっただろうか。
恐る恐る背中に回した腕に力を入れて、シエラは静かに目を閉じた。
ライナの小さなため息を拾って、シルディが苦く笑った。彼の手の中で浅い呼吸を繰り返す小竜は、美しい肢体に多くの傷を負っていた。それでも見たところ、大きな傷はないようだ。おそらく体力が尽きただけだろう。
シルディの膝で眠るリースの顔色も、未だに悪いままだが死線からは脱したように思える。背後の二人とて、命に別状はないだろう。
ちらとライナの後ろに目をやったシルディが、よかったねと笑った。ぼろぼろになったこの王子は、こんな状況においてでもやはりこの調子なのか。死にかけていたとは思えない様子に、なんとも言えない気持ちになる。
「問題はまだ山積みですよ。むしろ、これからです。あの魔物達のことも、この人のことも。宝珠のこともそうですし、あの二人だって。……それから、貴方も」
自然と声が低くなる。困った様子でシルディは瞳を泳がせて、地面に投げ出していたライナの手にそっと自分の手を重ねた。
「……うん、そうだね」
――けれど今しばし、穏やかな安息のときを。
+FIN+
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