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 無遠慮に顔に触れてくる神の後継者の手は、力ない女のものとなにひとつ相違ない。けれどひんやりとした手のひらから伝わってくるのは、体温だけではなかった。
 清浄で強い神気が、魔気に侵食された体にじわじわと染み入ってくる。転化寸前だった魂がかすかに痛みを覚えたが、ゆっくりとした優しい浄化によって澱みが消えていくのが分かった。

「おのれ、おのれぇええ! 貴様、わらわの腕をよくも!」
「先にやったのはお前だろ? あいにく、腕だけで済ませる気はない。人型ならなおさらだ」
「ふん、優男面のわりに威勢のいい……。さしずめこの傷は、そこな青虫の借りといったところかえ? わらわの結界を破ったことは褒めてやろうぞ。そのつるぎも、神官の入れ知恵と見たわ」

 だらだらと腕から深紅の血を滴らせる女は、エルクディアの持つ剣を見て憎々しげに眉を寄せた。濡れたような光沢を放つ長剣は、肉眼では分からないほどに淡く発光していた。
 それは神言によって施された、一時しのぎの神剣だ。
 なんだ、死んでなかったのか。
 場違いな、そして不謹慎な思いが、痛みの引いた胸に落ちる。目障りな騎士も、気に食わない神官も、役に立ちそうにない王子も、小さな竜も、――そしてもちろん、今自分を支えている神の子とて、生きている。
 抵抗する力もなかったせいで大人しく頭を預けていた膝の硬さが、一瞬の浮遊感を経て変わった。
 重い瞼を押し上げて見た先には、顔色の悪いシルディが苦笑を浮かべている。「ごめんね、リースくん。今は僕の膝で我慢してくれる?」男の膝枕などごめんだと言ってやりたいのに、喉が引き攣れて声など出ない。
 せめてもの抵抗にと目を閉じれば、治癒の法術が聞こえてきた。
 ゆっくりと傷が癒される。裂傷を治そうとして胸に触れた指先が、一瞬震えたのを感じた。きっとそこには、血や煤に隠れて逆十字の痣が刻まれている。
 隠しようのないそのしるしを見て、お綺麗な神官サマはさぞかし怖気だったことだろう。
 自嘲的に小さく笑い、リースはすっと意識を手放した。最後に聞こえたのは、力強く騎士の名を呼ぶシエラの声だった。



「<風霊、エルクを守れ!>」

 型にはまった神言通りではなくても、風霊はシエラの意思に従った。繰り出された攻撃の軌道を逸らし、エルクディアの動きを後押しするようにして速さを高める。
 彼は軽くなった剣に初めこそ驚いていたものの、すぐに勝手に慣れたのか踊るように身を翻していた。
 リースの怪我は通常の人間では致命的なものばかりであったが、皮肉にも、転化寸前の罪禍の聖人の影響を受け、死には直結していないようだった。ライナの治療を受けさえすれば、転化もせず、容態も落ち着いてくることだろう。
 ライナにはリースの治癒と結界の二つの術を同時に行ってもらわなければならないが、彼女は気丈に頷いて送り出してくれた。「いつでも援護の準備はしておきます」と言った彼女の強い瞳に励まされ、再びロザリオを握ることができた。

「これだから青虫は目障りよ!! これでも喰らうがいいわっ!」

 ドンッ、という鈍い音と共に、巨大な水の塊がシエラに向かって放たれる。
 閉じ込められれば溺死することは間違いないその水球を見て、エルクディアが剣先を滑らそうとしたが、シエラは自ら水球に向かって駆け出すことによって彼の行動を制した。
 愚かな、と女が高らかに嘲笑する。水に飲まれ、もがき苦しむシエラの姿を確信してか、女はシエラから目を離そうとはしない。
 ――気づけ。声には出さず呟いて、水球に手を伸ばす。
 重く、冷え切った水の感触に指先が飲まれた。「シエラ!」ライナとエルクディアの叫びが重なる。震える唇の端を持ち上げて、シエラは女を見据えた。
 ずぶり。肘まで凍てついた水に飲まれる。
 シエラが大きく息を吸ったのと、エルクディアが駆け出したのはほぼ同時だった。

「<清めよ! 聖なる水となれ!>」
「なん――ッ!?」
「――はああっ!」

 どう表現すればいいのか分からない、肉を斬る音が水球の弾ける音に重なった。耳を塞ぎたくなるような音と絶叫の不協和音の向こう側に、返り血を浴びたエルクディアが立っている。
 女の意識がシエラに集中していた隙を突き、女の懐に踏み込んで一気に切りかかったのだ。
 なだらかな曲線を描く女の肩から吹き出る鮮血が、聖水に混じって灰に変化していく。人となんら変わらない見た目だというのに、こうも違うものかと、シエラは息を切らせながら驚愕した。
 ふらつく体に畳み掛けるように、エルクディアが跳躍する。悶絶しながらも一撃を避けた女は、憎悪の眼差しをシエラとエルクディアの両方に向け、冷気を纏った氷塊を、血のべっとりとついた手のひらに生み出した。



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