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不規則な速さで脈打つ心臓が、人の道から外れ始めている。なにも考えられなくなった頭で、リースはそれを感じた。
血に呼ばれている。あの日、この女に注ぎ込まれた人にあらざる血が、すべてを喰らい尽くそうと牙を剥く。
「哀れで愚かな、愛しいボウヤ。わらわに今一度、愛を誓っておくれ……」
あいしてる。
その言葉によって、すべてが壊れた。
「ああ、うつくしや……。ボウヤのまなこ、血の色に変わってきたえ? そぅら、はよう墜ちぃ」
ただ、自分は、あの人に愛されたかっただけなのに。
「はよう、はよう……」
喉をくすぐる女の表情は恍惚に満ちており、漂う色香は万人を惑わすであろうものだった。その瞳に映り込む己の屍のような姿を、茫洋とした意識の中でリースは見た。
四肢はすでに、人であることを放棄しかけている。女の言うように、墜ちた方が楽なのかもしれない。これ以上の苦痛に耐え、その先に一体なにがあるというのだろう。
もう、いいではないか。
あの日以来、すべての希望は潰えた。手のひらには絶望だけが残った。怨嗟だけで生きてきた。
結局なにもできやしなかったけれど――もう、疲れたのだ。
「……あ、いし……」
あのときと同じ言葉を口にすれば、今度こそこの身は墜ちる。魔を完全に受け入れ、人であることをやめる。
そうすれば、この痛みから解放されるのだ。
――ふいに、真っ赤な視界の中で蒼が揺れた。それは気のせいだとすぐに気がつくけれど、存在しえないはずのそれは強く意識に割り込んでくる。
憎い。なにも知らない、知ろうともしないあの女が。持っている力を使いこなせないくせに、前に出ようとするあの女が気に食わない。
なにも、できないくせに。
――『……死ぬなよ』
なにを、偉そうに。
震えた喉が、最期の言葉を紡ぐ。
「……トゥ、テ・ミ、――……」
「なっ――!?」
予想だにしなかった言の葉に、女が瞠目する。ざまあみろ、と嘲笑の意味を込めてリースは口端を吊り上げた。
トゥーテ・ミ・トゥミーア。魔導師が使う魔術において、最強の呪文だ。
意味は――『我と共に死ね』。
未だ意識を保っていたリースに驚愕し、動きを忘れた女の隙をついて、彼は掠れる声を振り絞るべく口を開く。
呪の意味を知ってか慌てた女が、再び水の塊を指先に生み出す。「ならぬっ、ならぬ!」髪を振り乱し、震える爪がリースの喉目がけて振り下ろされる。
だが、それよりも早く、男の怒号がその場を切り裂いた。
「ッ、ギャアアアアアアアアアアアアア!」
目の前で光った一閃に意識のすべてが奪われた。失いかけていた視界が赤く染まり、どくりと心臓が脈打った。
しかしそれは今までの死さえ予感させるものとは違い、ひどく優しい高鳴りだった。とく。再び、人としての命を求めだす。
「――リース!」
ガラスが砕け散るようなこの音はなんだ。
耳朶を叩く、あの声は。
「<大地に眠る金剛の輝きよ! 我が前にて、その最たる守りを施したまえ――金剛殻(ダイヤモンド・シェル)!>」
「ライナ、聖水と神聖結界も頼む! リース、どこだ!?」
「シエラちゃん、あそこ!!」
半狂乱に陥った女の悲鳴が耳をつんざく中、しっかりと自分を取り囲んだ結界の感覚にリースは息を呑んだ。
水に変化し、戒めが溶けた体を抱き起こしたのは、今しがた憎いと心に浮かべたあの女だ。
声は枯れ、顔も髪も汚れている。この結界に引きずり込まれる前に見た彼女と比べると、疲弊していることは間違いないはずなのに、その瞳だけが別人のように生気を取り戻していた。
理由など、問いかけずとも即時に分かる。そんな自分が、ひどく滑稽に思えた。「すぐに援護する!」と、掠れた声で彼女は叫んだ。