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 赤々と輝くリースの双眸は、最早普段のそれではない。女は傷つけられた胸元を気にすることもなく、ただただわななく彼を面白そうに眺めていた。
 どれほど迅い炎が襲い掛かろうとも、女は蝶のように身を翻してそれを避ける。その禍々しさは、蝶というよりは蛾だろうか。

「ドゥ・ウィースト・フュアフェウエーラ! ブリム・ス・トーネゲブラ・テ!」

 心臓が弾け飛びそうだ。魔術ではなく、体の内側で爆発が生じている気がする。
 炎術を猫の子を扱うように交わした女の、妖艶な笑声が鼓膜を愛撫した。

「くくくっ、あはははは! 美しい傀儡(かいらい)、わらわの愛しいボウヤ! もっと舞ってみせよ、その血を散らしておくれ! もう限界だろうに……のう?」
「だま、れッ!」
「ボウヤは昔から無茶ばかりしおる。望月の晩に、罪禍の聖人がもがけば無事ではおれぬこと、知っておろう? 胸が疼き、血が滾る。闇の血がヒトの血を喰らい尽すのよ! このままではボウヤ、ヒトではおれぬ。ヒトではおれぬえ!」

 女の言葉を肯定するように、体内がどくどくと熱を持って疼き始めている。血が沸く。
罪禍の聖人――その言葉が、胸に突き刺さった。
 混ぜられた血が憎い。容易く墜ちてしまいそうな、脆弱なこの体が憎い。目の前のあの魔物が、憎い。そしてなにより、望んでもいないのに聖血を与えた神が、憎い。
 満月の夜は死にたくなるほどの苦痛に苛まれ、罪禍を発動すればまざまざと人にあらざる力を見せつけられる。
 いつ魔物に転化するとも知れぬ身を抱え、生きていくことがどれほど苦しいか、あのお綺麗な聖職者どもはきっと分かっていない。汚らわしい生き物だと蔑み、存在を拒絶する。
 神に背いた裏切り者だと、そう言うけれど。

「……神など、知るか! 俺は、貴様を殺すだけだ!」

 誰がお前に忠誠を誓うと言った。誰がこの身を、この魂を捧げると約束した。
 そんなお綺麗なタマシイなど、必要なかった。望んでなどいなかった。
 光を弾く銀の髪が持つ意味など、知るはずもなかった。

「哀れなボウヤ。屠ると言うか。――この母を」
「だま――ッ!」
「かあさまかあさまと、小鳥のようについてきおったボウヤはどこに行ったか。森で彷徨い歩き、泣きながらわらわの胸に飛び込んできたボウヤはいずこ? ほんに、ほんに哀れよ。そして、ほんに愚かしい」

 ひゅ、と息を呑んだリースの眼前に、水の弾丸が飛び込んでくる。瞬時に顔を背けて避けたが、疲労を訴える足は体を支えきれずに崩れ落ちた。
 全身に走った痛みに呻く間もなく、眉間にぴたりと冷たいなにかが押し当てられる。
 滲む視界の向こう、屈んだ女が長く鋭い爪を揺らすのが見えた。

「あの数年、わらわはまこと反吐が出るかと思ったわ。下等なヒトになど化け、サル以下のボウヤの面倒を見なければならなかったのだから。なれど、ボウヤはわらわのまことのボウヤよ。ボウヤには、このわらわの血が流れておる」
「エクス・プ――! ッ、ぐぁ、はっ!」
「させぬ。……よぅくお聞き。のう、ボウヤ? そなたを産んだ母も父も、実に愚かであった。逃れることのできぬ水の檻に入れてやれば、あの忌々しい銀糸を振り乱し、目を引ん剥いて喉を掻き毟っておったわ。無様で、とても見苦しい最期よの」

 喉の奥に水の塊が押し込まれ、魔術はおろか呼吸さえ奪われる。ぐっと胸倉を掴み上げられ、女の唇がリースのそれを塞いだ。
 流れ込んでくる強烈な魔気に、心臓がかつてないほどの痛みに絶叫する。あまりの痛苦に手足をがむしゃらに動かして女から逃げようともがくも、水の杭によって標本のように手足を地に繋ぎとめられる。
 しっかりと形を持った水の杭が肉を貫いているというのに、もはや痛みは感じられなかった。
 すべての感覚が心臓に集まっている。
 ぼろ、と痛みと苦しみによって零れ落ちた涙を、女は愛おしそうに舌で拭った。呼吸を妨げていた水の塊が、するりと液体になって喉を流れていく。
 ひゅうひゅうとか細い息を吐き、全身を震わせる彼の双眸は、あてもなく宙を彷徨うだけだ。
 糸の切れた傀儡のようにぐったりとする彼の体をそうっと抱き締めて、女は耳元で甘く囁いた。

「わらわを母と慕ったのは、ボウヤの方。わらわはボウヤの気持ちを聞いただけ。わらわのことを愛しておるのであろう?」
「あ……」



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