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 沈黙ののち、ゆっくりとライナは唇を動かした。だがそれは、声ならざる声によって掻き消される。

 ――ウァアアアアアアア!

「ッ! 魔物か!?」
「そのようですね。先ほどの奇妙な魔気……それから僅かですが、シエラに似た神気も感じます! 場所はおそらくこの真下、ここから十二時の方向です!」
「一時休戦だな。走れるか?」
「ええ、なんとか」

 剣を下ろし、込み上げてくる焦りと期待に心臓が疼いた。それはライナも同じらしい。瞳の光が、より一層強くなる。

「話はあとで聞かせてもらう。――行くぞ!」


+ + +



 伸ばした手の先さえ見えない暗闇の中で、妖艶な女の笑声が響く。女はその赤い唇で弧を描き、満足げにその様子を見下ろしていた。ぼんやりと浮かんだ球体の中になにかが映っている。
 闇の中で、その球体が唯一存在を明らかにしていた。だが光を放っているというよりは、むしろ薄い闇と表現する方が正しそうな雰囲気だ。時折ゆらりと歪んで、ほんの一瞬女の顔を写し込んでいる。
 球体の中では、とても美しい舞が披露されていた。声が聞こえないのがひどく悔しい。

「ああ……うつくしや」

 あの方にも見せて差し上げたい。女は恍惚の表情で自らの顎を撫で、口づけを乞うかのように舌で唇を濡らした。
 飛び散る赤。沈む闇。全身血色に染まって、狂気に心は喰われ、やがてその身は魔に堕ちる。
 苦痛に喘ぐ口からは唾液が零れ、血を乗せた舌が覗いている。ここからでは見えないが、あの両の目からは涙でも溢れているだろうか。臓腑を喰い破られるような激痛から? それとも、ヒトを手放す屈辱から?
 跳ねる、回る、飛ぶ、屈む。ああ、ああ、これほど美しい舞を見たことがあろうか!
だがその完璧な舞台を汚すものが球体の中に映り込んだ。
 途端に女は不機嫌になって眉根を寄せる。昔からあの色は嫌いだった。見るだけで吐き気がしてくる。

「忌々しい青虫よ。……うん?」

 球体が大きく揺れて、舞台の端に別のなにかが映る。

「なんと。愛いボウヤが二人もおるわ。今宵は楽しめそうじゃのう。はよう時が満ちぬか」

 待つだけは飽いた。そう呟いて女は球体に唇を寄せた。
 球体の中では飽くことのない舞が惜しみなく披露されている。あの美しい舞を見るのは何度目だろうか。
 痛みと血に狂って舞い踊る様の艶やかさといったら、この世で最上の娯楽だ。舞自体は何度か見たことがあるが、あの人形の舞はこれが二回目だ。あの人形は他の人形の舞とは比べ物にならぬほど美しい。荒々しくも無駄のない素早い動きは、鷲や鷹といった猛禽類を連想させる。その爪に肉片をぶらさげ、嘴を血に濡らし、傷ついた翼で地をのたうつ。
 まさにあの人形にぴったりの生きざまではないか。ますますヒトにしておくのが惜しまれる。何度舞ったのだろう。これが二度目ということはあるまい。
 実際この目で見たのは二度だが、時折人形の目覚めを心臓が教えてくれていた。満月の晩が巡ってくるたびに、女の心はざわついていた。あの人形はどうしているだろうかと、それだけが頭を支配した。刻みつけた愛のあかしが疼き、激痛に悶えて苦しむ様子を見に行けないことが、なによりも切なかった。
 あの人形は、苦しめば苦しむほどにその色香が濃くなるというに。

「はよう……はよう……」

 女の望み通りに時が満ちたとき、彼女の体はすうと闇に溶けていった。


+ + +



 崩れた世界で再び会おう。
 幾度も交わした約束を果たそう。
 誰が望まずとも、誰が求めずとも。
 必ず、果たそう。


+ + +



 これは、どういうことだ。
 聖堂内はもはや、聖なるという言葉とはかけ離れた地獄と化していた。壁は崩壊し、柱は砕け散り、振り落ちてきた書物が赤黒い炎に呑まれている。
 床はすでに平坦な場所を探す方が困難で、重なり合った瓦礫の上や下には悪臭を放つ魔物の屍が無残な状態で転がっていた。
 あれほど神秘的だった青い光が、今では不気味な明かりにしか感じられなくなっている。
 耳には咆哮と断末魔の叫びが容赦なく入り、生々しい血臭と肉の焼け焦げるにおいに胃が大きく痙攣した。耐えきれないほどの吐き気が込み上げてくるが、ほとんど空っぽの胃では吐き出すものもない。反射的に口を手で押さえたが、苦しみだけがせり上がってきて、シエラの眦に涙が浮かんだ。
 目の前の光景が信じられない。立っていることがやっとの状態で、両肩をシルディに支えてもらっていなければ、きっとその場にへたり込んでしまっているだろう。
 カタカタと歯の根が音を立てている。足も手も、全身が震えていた。



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