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 今は不気味に輝く刃が、ライナの首ぎりぎりのところでぴたりと静止している。
 なにを怒っているのか、なぜ彼女に剣を向けているのか、自分でもよく分からない。反射的に体が動いた。
 心に――あの子の名前に、突き動かされて。

「随分と、感情的ですね」
「……オーグ師匠が言ってたよ。己の感情だけで剣を振るうなって。なら俺は、騎士失格か? でも考えてみろよ。感情を持たずに斬るだけの騎士なんて、それこそただの道具だろ」

 エルクディアの自嘲にライナが息を呑む。ここは狭いといえども階段だ。壁際に追い詰められたわけでもないので、一段後ろに上がるだけで刃から逃れることはできる。
 それなのにライナの足は微塵も動かなかった。ありえないことだとは分かっていても、少しでも動けば首が落ちる――そんな思いが、彼女の中では渦巻いていた。

「なあライナ。お前は一体なにを知ってて、なにを隠してるんだ?」
「なにも。なんのことだか、さっぱりですね」

 ふつりとエルクディアの中で怒りが生まれる。怯えを隠し切れていないのに、冷静さを保ったままライナは嫌味を返してきた。「なんのことだか、さっぱりですね」どこかで聞いた台詞だ。それもそうだろう。少し前に、自分が彼女に放ったのと同じ台詞なのだから。
 ライナとの付き合いは長い。だからこそ、彼女が外見とは裏腹に大人しいばかりの少女ではないと知っている。クレメンティア・ライナ・ファイエルジンガーは、エルガートを代表する公爵家の令嬢だ。
 本来ならばこんなところで汗と埃にまみれるはずのない人物のはずだった。こうしてエルクディアが対等に口を利くこと自体が、ありえないことなのだろう。だが彼女は聖職者としての印を持って生まれ、エルガートの公爵令嬢としてではなく、アスラナで聖職者として生きることを決めた。

 とはいえ、頑固なまでの潔白さは血だ。
 自らの正義を正義だと信じて疑わない、愚かともいえる清らかな血の持ち主だ。
 だから彼女は屈しない。恐れても、怯えても、華奢な体を小刻みに震わせているのに、自らを曲げようとはせず凛とそこに立っている。
 エルクディアはライナのそんな性格を気に入っていた。そんな彼女だからこそ、仲間として共に歩もうと思えた。――なれど今は、その強い眼差しがとても目障りだ。
 大きな紅茶の瞳から、揺るぎない意志ではなく涙が零れたのならどれほどよかったか。ほろほろと泣いて、怖いと、助けてくれと、そう懇願されたのなら、自分も幾分か冷静になることができたのに。
 身勝手な思いだと知りつつも、エルクディアは波立つ感情を抑え込めずにいた。段差のおかげで目線がそう変わらなくなったライナの視線を、横目で受け止める。

「こんなことをしても無駄でしょう。貴方はわたしを傷つけられない」
「なんでそう思えるんだ?」
「シエラが悲しむからですよ。それ以外の……いえ、それ以上の理由がありますか?」

 エルクディアがライナを傷つけたとあれば、シエラはきっと怒るだろう。そして泣いて、失望するに違いない。

「ない、な。だけどお前、今――怖い、だろ?」

 僅かに手首を返して冷えた刃が喉元を掠めるようにすれば、ライナがびくついたのが肌で感じられた。最低だ。仲間であり、妹のような存在の親友に剣を向けていることに、エルクディアの矜持に小さな傷がいくつも入っていく。
 恐怖を与えて答えを引き出そうとするだなんて、騎士の――いや、男のすることではない。
 いっそ死にたいくらいの恥だと心中で吐き捨て、それでも退くことのできない思いに歯噛みした。
 ライナは失笑し、またしても聞き覚えのある返答をした。

「さすがはエルク、よくご存じで。もう何年の付き合いになりますか?」
「さあな。忘れた」

 シエラ達を見つけて、ホーリーの問題を解決して、アスラナに帰ったら。
 そのとき自分達は、こんなやり取りなどなかったかのように振る舞うのだろう。偽りではなく、本当に今まで通りの生活を続けていくに違いない。
 そんな確信めいたものが、エルクディアにはあった。



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