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言うが早いかリースは短剣を闇の中に投げ放ち、すぐさま呪文の詠唱に入った。シエラの頭痛と吐き気が増したのもほぼ同時だ。
テュールが場の変化を読み取ったのか、すっと目を細めて前に出たリースの傍らへと飛び立つ。
彼の視界を確保するかのように前方を明るく照らし、小さな竜は幼さゆえの高い声で唸りを上げた。
光が強くなったことで周りがはっきりと見える。高い天井、崩れかけた石の壁、繊細さを保ったままの人魚の像が角に置かれている。
神秘的と言うよりは不気味な光景に、ぞわりと肌が粟立った。
リースの放った魔術によって勢いを持った短剣が弾丸のように回廊を進み、奥に潜んでいた魔物を捕らえて爆発する。静かな、けれど確かな衝撃を伝えてくる爆発は、奇妙としか表せない。
余計な身動きは一切せず、淡々と詠唱のみを続けるリースの後姿を見、シエラの口から吐息のような独り言が滑り落ちた。
辺りの様子を探っていたシルディが言葉尻を拾い、「え?」と問いかける。シエラはゆっくりと答えた。
変だ、ともう一度同じ言葉を繰り返して。
「変なんだ、あの男は。……守る気などないと言っていたくせに、今あのようなことをしている」
守る気がないのなら、テュールを奪うなりなんなりして逃げてしまえばいい。シエラとシルディは、彼に抵抗できような力は持ち合わせていない。見捨てることは簡単のはずだ。
リースが聖職者を見るとき、その目からは生半でない憎悪が読み取れる。そして魔物と対峙するときのそれは、さらなる激しさを増す。
言葉にできない憎しみをあの凍てついた眼差しが訴える。闇に突き落とされそうな冷淡な声で、彼は呪詛にも似た言葉を容易に紡いでみせる。
魔物も聖職者も憎いのなら、どうして彼はここにいるのだろう。
学園側の命令だといえばそれまでだ。だが、その理由ではどうにも納得がいかない。
黙り込んでしまったシエラの反応を、シルディはある程度予想していたらしい。ほのかな微笑を向けられたが、シエラにはそれが本当の微笑か苦笑か、見分けがつかなかった。
「リースくんはね、本気で僕らなんか守る気がないと思うよ」
どうん、と大きくなった鈍い爆音にシルディが肩を跳ね上げる。
「これは僕の想像でしかないんだけど、でも……多分、リースくんは心の底から、僕らなんてどうでもいいって思ってる。それこそ、世界の唯一の希望であるシエラちゃんが死んでもいいってくらいに。本気でそう思ってるんだろうけど……でも、体が勝手に動くことってない? 思ってることと違うことを、体がやってる。だからきっと、本人も矛盾に気づいていない。あるいは――意思を口にすることで、自分に言い聞かせようとしてる」
だから誰も彼の矛盾を気にしないし、気づかないんだよ。シルディは言って締めくくった。
テュールの吐息(ブレス)が装飾の施された美しい柱を砕き、瓦礫が散って辺りには砂煙が巻き上がる。
絶え間なく続く魔術の詠唱とテュールの唸りが、どこか不気味に重なった。
穏やかな口調で話すシルディの隣にいると、目の前で起こっていることが夢のように思えてくる。透明な壁一枚を隔てているように、リースの姿が遠くに見えた。
「それにしても数、増えてきたね。さすがにここでお喋りしてるわけにはいかない、よねっ……!」
言いながら足元に転がっていたこぶし大の石を拾い上げたシルディは、それを勢いよく魔魚の大群に向かって投げた。結界から飛び出した石はぼちゃんと鈍い水音を立て、緩やかな曲線を描いて再び沈んでいく。
なんの意味もなさないばかりか、むしろ生じた砂煙によって視界が悪くなってしまった結果に、二人は口をつぐんだ。
虚しく響いたリースの冷ややかな舌打ちが、言葉以上にシルディを責める。乾いた笑みを浮かべるシルディを横目に、シエラはロザリオに手を掛けた。
中央の蒼い法石が、彼女の意思に応えるように光を反射する。
「私が行く。使えないのは誰か、思い知らせてやる」
「え、ちょ、シエラちゃん? い、意外と好戦的なんだね。……ていうか、使えないって僕のこと?」
シルディの言葉を最後まで聞くことなく、シエラはリースの傍らへ並んだ。一瞬突き刺さった鋭利な視線を気にも留めず、ユーリに教えてもらった神言を思い出す。
政務で忙しいはずの青年王は、暇を見つけては――というより、逃走しては――シエラの元へ訪れ、力を制御しやすい神言を教授してくれていた。「まずは力の使い方に慣れることだね」と微笑を浮かべ、滑らかに神言を紡ぐ様はどこか神秘的だった。
彼の方が神の後継者と言うに相応しいようにも思え、なにかが胸をくすぐる。それが劣等感であると気がついたのは、つい先日の話だ。