18 [ 202/682 ]

 彼のように、上手く力を使えていたら――そうしたら、大切なものを守ることができただろうに。
 ひんやりとした空気が頬を掠め、シエラはしかと前を見据えた。
 どこから湧いてきたのか、列を成して魔魚が迫ってくる。中には犬の頭をしたような珍妙な魔魚もおり、直視するには耐えがたい醜悪さだった。
 リースによって破壊された魔魚は、腐敗した肉片や骨を散らしながら沈んでいく。白濁した眼球と目が合い、ぞっとした。

「<神の御許に誓い奉る――浄化の水よ、朽ちた魂の救済を>」

 心を落ち着かせれば、水霊がざわめいたのを感じた。突如として優しい水流が生じ、消滅しかけている魔物の魂を攫っていく。
 浄化され、肺となって水に溶けていく様子は、深々と降る雪を連想させた。
 聖職者としての力で救えた魂は半数にも満たなかったが、それでもやらないよりはましだった。この判断は間違ってはいない。そう己に言い聞かせ、シエラは再びロザリオを構える。
 先刻と同様、ロザリオを弓のように見立てて意識を集中させた。

「<闇は光に、魔は聖に。浄化の裁きを汝に下す。――光矢、その業を貫け>」

 幾本もの矢が魔魚を貫き、灰へと変える。しかし到底数が間に合うはずもない。

「リース! もう一度砂を巻き上げてくれ。またあの術で一掃する」

 それ以外に方法が思いつかなかった。神言は光矢の応用で済み、消費する労力も最低限に抑えられる。
 なにより広範囲に亘る効果的な攻撃方法が限られるこの場所で、リースの協力を得たあの術は最適だった。
 できることなら自分一人の力ですべてを片付けてしまいたい。だが力の使い方が完全でない今、それは無謀なことだった。
 シエラは急かすようにリースへ体ごと向け、次の段階に備えて努めてゆっくり深呼吸をした。大丈夫、一度できたことだ、今度も成功する。何度か己の中でそう繰り返し、呼吸を整える。
 しかしリースは、シエラの呼びかけに応じようとはしなかった。
 どうしたことか。問いかけの変わりに向けた視線が交わるよりも早く、シルディの緊迫した声音が耳朶を打つ。

「リースくんっ、そこの人魚像壊して!」

 シルディが指差したのは回廊の角にある、破損の少ない美しい人魚像だ。絡みついた藻さえ落とせば、そのままの美術的価値が戻るだろうものを壊せと彼は言う。
 この状況では考えている暇もないと判断したのか、リースはなにも口にせぬまま素早く短剣を人魚像へ滑らせるように投げた。
 音もなく銀の刃は水の中を進み、人魚像の首へ鋭く突き刺さる。砕け散った破片が、一瞬雪のように舞った。
 弓を引き絞りながら、横目にリースを見る。彼は深い紫の双眸を一度瞼の裏に押し隠し、次いで獣のような眼光を人魚像に向けた。

「ヴェル・デ・ツェルステュート」

 冷ややかな呪詛は、声の静かさに反して強大な破壊力を保持していた。肉眼ではなにが起きたのか確認できないほど瞬時に像は砕け、水中であることを忘れさせるかのような衝撃が気泡を通して全身に叩きつけられる。
 テュールの気泡を弾丸のように瓦礫が貫通し、シエラは咄嗟に両腕で顔を覆った。
 足元を揺るがす振動音が頭蓋さえも振り動かす。数時間前に感じたあのおぞましい感覚がよみがえり、彼女は無意識のうちに縋るものを探した。
 だがそこに手を差し伸べてくれる者もいなければ、掴まれそうなものもない。
 大きな水の流れと共に目の前には黒い闇がぽっかりと広がり、腕の隙間から見えたそれに目を瞠った。

 先ほどまで人魚像があったその場所に、大きな穴が空いている。それも爆発で無理やり空けられたような穴ではなく、組み合わされた石同士が譲り合うように動き、一つの入り口を作ったかのように綺麗な穴だ。
 気がつけば魔魚はリースの魔術に巻き込まれたのか、大分数を減らしていた。穴に吸い込まれるように砂が攫われ、なにもかもがごっちゃになって濁流に押し流される。
 気泡ごと流され、ちょうど穴に差し掛かった瞬間、テュールの短い悲鳴とリースの舌打ちがすぐ耳元で重なった。

「なっ――!」
「息止めてっ!」

 言葉として確認できたのはそれだけだった。
 シルディが真剣な顔をしてテュールに手を伸ばしたと思ったら、ぱちんと音がしそうなほど軽やかに気泡が破裂した。どっと体に力が圧し掛かるこの感覚を、既に彼らは知っている。
 二度目の悲劇に強く目を瞑ったシエラの腕を、水ではないなにかが捕らえた。驚いた拍子に唇の端から小さな泡が生まれる。
 きつく体を引き寄せられ、顔を圧迫された――おそらく抱きかかえられているのだろう――状態で、シエラは再び全身が木の葉のように弄ばれるのを感じていた。

 息ができない。苦しくて苦しくて、呼吸をしようと勝手に口が開く。
 けれど口の中に海水が流れ込んでくることはなく、代わりに濡れた布の感覚が唇をこすった。
 それが一体なんなのか自覚する前に、彼女の意識は白濁としてふつりと消えた。


+ + +



 告げてはならない想いがある。
 進むことも退くことも赦されない残酷なさだめから、逃げることはできそうにもない。


back

[*prev] [next#]
しおりを挟む


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -