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 まずいな、これ――。
 痛々しい沈黙が降りる中、シルディは胸中でそっと呟いた。歩けど歩けど、見覚えのある景色に辿り着かない。
 初めて訪れた遺跡だから当然といえば当然だが、シルディはアビシュメリナが建てられた時代と同じ年代の遺跡にもいくつか訪れたことがある。
 普通、同年代の建築は似通ったものが多いはずなのだが、このアビシュメリナはどことも違った雰囲気を持っていた。

 高い位置に取り付けられた小窓からは魚が行き来しているが、人間は通れそうにない。柱の装飾は流線型で、水の流れを表しているようだ。
 長い間海の中に沈んでいた割には、損傷が少ない。気味が悪いほどに、アビシュメリナは当時の姿のままだった。
 光の差し込まない海底では、今がどれほどの時刻なのか分からない。それでも呆れられるほど正確なシルディの腹時計が、すでに丸一日以上経過していることを示していた。
 月が満ちるまであと僅か。それまでになんとかしなければ、生きて戻れる保障はない。――今でも十分ない、という自答に彼は耳を塞いだ。
 隣を歩く神の後継者である少女は、口にはせぬものの、高まる不安に胸が押しつぶされそうなのだろう。影の落ちた表情から、触れただけで壊れてしまいそうな儚さを感じ取った。
 濡れていた服や髪がすっかり乾くほど時間が経過したことも、さらなる不安になったようだ。弱音は一切吐かないが、時折零れる誰とはなしに向けられた舌打ちが痛々しい。
 何度か休憩を挟んだが、疲れきっているはずの彼女は一睡もしようとはしなかった。このままでは心身ともにまいってしまう。
 そう思っても、なにもしてやれないのだからやるせない。
 
 ――どうか、壊れないでいて。

 今はまだ大丈夫だろう。けれど、もしもあの二人になにかあった場合――彼女はそれを乗り切ることができるのだろうか。一度砕け散ったものを元に戻すことは不可能だ。
 彼らがとても危うい状態にいることを、本人達が気づいていないのが不幸中の幸いなのかもしれない。
 今にも切れそうな綱を渡っているのだと自覚したとき、恐怖から動けなくなってしまったらそこで彼らの世界は終わる。

「だからいいってわけでもない、か……。――あれ?」

 ふいに視界の端をなにかが滑るように横切った。ここは海の中だ。となると、それは十中八九、魚に違いないのだろうが――。
 がーう、とテュールが突然尾を引かれて不思議そうな声を上げた。それを気にすることなくシルディは先ほど見た影を必死で探す。
 シエラとリースのもの言いたげな眼差しを一身に浴びながら探すこと数分、シルディは己が目に映った光景に信じられず瞠目した。
 すいすいと暗い遺跡の中を泳ぐ魚は、鮮やかな黄緑色をしている。長い尾鰭がドレスの裾のように揺れ動き、優雅な貴婦人のような印象を与える魚だった。

 まさか、と声には出さず唇だけで呟く。魚はそんなシルディをものともせずに目の前を横切り、天井付近の窓からすい、と外へ抜け出した。

「……シルディ?」
「あっ、ごめん。なんでも……ない、ことはないかな。あのさ、ちょっといいかな。今から言うことは、僕の憶測に過ぎない。でも聞いてほしいんだ」

 水に愛された国、ホーリー王国。
 シルディはそこに生まれ育ち、海と共に生きてきた。ホーリーの民は貴族や平民などの身分を問わず、水に慣れ親しんでいる。
 図書館や衣装屋を除く主要な建物の中には、大抵一部屋は水の間と呼ばれるような部屋がある。足首辺りまで水が張られ、美しい装飾の施された床と織り成す神秘的な光景が見られる部屋だ。
 白露宮にもロルケイト城にも当然水の間はある。潜れるほど深い水場も備えられていたし、外に出ればすぐにでも泳ぎまわれた。
 シルディは剣や弓は不得手であったが、泳ぎだけは誰にも負けない自信があった。だからこそ、彼は水に関わる僅かな変化さえも見逃さない。

「今さっきの魚、すっごく珍しいんだ。魚なのに肺呼吸でね、数も少ない」
「それがどうしたんだ?」
「彼らは光を嫌う。かといって深海魚ってわけじゃない。夜行性っていうのともまた違うんだけどね。それに、浅瀬に上がってくることはほとんどないんだ。夜でも月明かりのある海面に顔を出すことは、まずない」

 どんな漁師や海賊も、あの魚を生きた状態で見たことはない。そのため、幻獣や水霊と同一視されることもしばしばある魚だった。



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