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「離せエルク! ライナの様子が――」

 無理やり体を捩ってライナを見れば、その異常な様子がはっきりと分かる。恐怖に支配された彼女からは生気が徐々に欠けていくようにさえ見えた。
 パキン、と再び鋭い音が響く。そこでようやく、シエラはリースが「どういうことだ」と問いかけた理由を知った。

「結界の無効化だと? この程度の魔物に……?」
「無効化? でも空気は……」
「違う、神聖結界の方だ。だが、ライナの結界がこうも易々と破られるなんて考えられない」

 しかし、現実は無情にも眼前に突きつけられる。空気を保つテュールの結界を残し、ライナの施した結界が砕かれた今、魔魚の攻撃を防ぐ術などない。
 さらに術を仕掛けようとするリースのもとへ、今までシエラの肩で休んでいたテュールが飛んでいく。それに静止をかけることさえエルクディアに阻まれ、彼女は小さく歯噛みした。
 神聖結界がなくなったせいで、肌に感じる魔気が強くなった気がする。
 ――どう考えてもおかしい。ここにいる魔魚は数こそ多いものの、ライナの結界を無効化できるほどの力など到底持ち合わせてはいない。
 ただ敵対象に向かって突き進むだけの下等な魔物には、どう足掻いても叶わないことなのだ。
 エルクディアの肩越しに、魔魚の口から緑色の汚泥のようなものが浮かぶのが見えた。あれを防ぐには、相殺させるよりも他にない。
 すぐさま自分もリース達のもとへ向かおうと身を捩るも、エルクディアの拘束は緩まることを知らなかった。

「っ、邪魔だ! さっさと離せ!」
「うるさい!」

 びくり、と肩が震えた。普段ではあまり聞くことのない焦りを帯びた怒声に、意識と体が絡め取られる。
 こんな状況下だというのに、シエラは彼と初めて出会った日のことを思い出した。
 あのときも確か、こうして怒鳴られたのだ。

 ――黙って守られろ、と。

「剣になれないんだったら、せめて楯にくらいはさせろ!」

 頼むから。
 苦しげに吐き出すようなその言葉に、シエラは心臓が捻られているのだと思った。
 先ほどからずっと力を酷使しているリースも、小さな体で魔魚に向かうテュールも、ましてや様子のおかしいライナもいるのに、ほんの一瞬シエラの中から彼らに対する意識が消えた。
 目の前に広がるのは深い藍色の軍服で、聴覚を支配するのは聞き慣れた――けれど初めて聞くような――声で、感じるのは痛いほど包んでくる腕の感触。
 すべてが感覚が彼に支配されたのだと、否が応でも知覚させられた瞬間、彼女は顔を歪めてかぶりを振った。
 すぐさまよみがえってきた今の状況に、感情ではなく理性が正しい行動を知らせてくれる。
 そして今度こそ、シエラはエルクディアの腕から逃げ出した。

「それはできない。私は、神の後継者であることを後悔したくない。お前を剣だとも楯だとも思ったことはないし、それに――」

 優しい眼差しが、脳裏によみがえる。

「それに、『ありのままに生きろ』と言ったのはエルク、お前だろう?」

 だから好きなようにやらせろ、と口にはせずに告げる。
 悲痛そうに歪められていた新緑の双眸が大きく瞠られたと思うと、エルクディアは一度目を伏せて軽く息を吐いた。次に合わさった視線は、普段以上に強くて優しい光を宿している。
 それが不思議と、先ほどよりも守られているような気がした。

「分かった。……無理はするなよ」
「ああ。ライナを頼むぞ」

 ぽん、と一つ頭を撫でられたのを合図に、シエラは気泡の壁ぎりぎりまで駆け寄った。真正面から見据えた魔魚は、最初に比べると大分数を減らしている。
 リースのすぐ脇では、テュールが氷の吐息(ブレス)を吐き、広範囲に亘って魔魚を沈めていた。氷付けにされた魔魚は海底に沈み、淡々と放たれるリースの術によって粉々に打ち砕かれ、屠られる。
 彼らのおかげで、神聖結界が破られても大事になっていないのだとすぐさま理解できた。
 まさに魔魚の攻撃が水際で食い止められているのだ。シエラは不安に掻き立てられ、焦る心を必死に落ち着けてロザリオを握る。
 リースから鋭い視線が突き刺さったが、彼は術を紡ぐのみでなにも言ってこなかった。
 ロザリオを弓に見立て、光矢をつがえようとしたシエラだったが、直前になってその手を止める。

 ――これでは駄目だ。生み出せる矢はせいぜい三、四本。いくら数を減らした魔魚とはいえ、あまりにも効率が悪い。

 ならどうすれば――と考えている間にもリースの術が魔魚を破壊し、刃にも似た骨の欠片を雨のように降らせる。その一つが頬を掠め、赤い一線を描いた。
 庇う者がいなくなった今、破片は容赦なくシエラを傷つける。よく見れば、術を放つリース自身も小さな傷を無数に負っていた。
 くそ、と毒づいて彼女はロザリオを握る手に力を入れた。やると言っておいて、結局なにもできないのか。焦燥だけがふつふつと湧き上がってくる。
 俯いた彼女の手の甲に、またしても一線が走った。

「……そうか!」

 雨のように広範囲に降りそそぐ攻撃ならば、一度に多くの魔物を浄化することができる。
 わざわざ矢を生み出す必要などない。要するのは鏃のみでいい。いや、この海底に積もる砂でも構わない。



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