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「シエラ、視えますか?」
「いや、まだだ。かなり弱いが、魔気は確かに感じる」
「かなり、ですか……」

 瓶の蓋を開けた状態でライナが動きを止めた。警戒態勢に入った気泡内には、緊迫した空気が流れている。剣呑に細められたリースの紫水晶の双眸は、得物を狩ろうと殺気さえ放っていた。
 感じる魔気は僅かなものだ。双子の人狼、イェランやイェスタ達とも比較にならないもののはずなのに、体を襲ってきたあの感覚は彼らをゆうに超えていた。
 どういうことなのだろうかと思案するシエラを置いて、先にライナが歯噛みする。
 唇と歯の間から零れてきたものは、ため息とも舌打ちともつかないものだった。

「シルディ、わたし達の後ろに。エルク、彼を守ってください。……厄介なことになりましたね」
「ライナ、どうするんだ?」
「戦うしかありません。どうせこの中では、逃げ回っても知れてますから。シエラ、魔気の強さに少しでも変化があれば教えてくださいね」

 気だるそうに短剣を構えたリースを見やり、ライナは悲痛な面持ちを浮かべた。
 だが今は魔導師や聖職者やと言っている場合ではない。方法がどんなものであれ、生き残ることがなによりも大切なことだった。
 ゆっくりと前進しながら神経を研ぎ澄まし、些細な変化をも感じ取ろうとシエラは目を閉じた。
 視覚を失ったことによって、聴覚が通常時よりもさらに敏感になる。流れる水の音、踏みしめる砂の音、そして――前に立つエルクディアの、些細な息遣い。
 当たり前のように前に立つ男の背を眺め、尻尾のごとく細く束ねられた後ろ毛をシエラは思い切り引っ張った。

「いっ――! シエラ?」
「退け。私が出る」
「出るって……なに言ってるんだ。気泡内からは出れないだろ」
「私が前に出る! お前はあの王子を守ってろ。ライナがそう言っていただろう」

 一瞬荒げられた声に、リースが抗議の眼差しを向けてきたのでシエラは慌てて声量を下げた。
 納得いかないと言葉にせずとも告げてくる新緑の双眸に、もやもやとした捉えどころのない苛立ちが募っていく。
 どこの器官が感じているのか分からない魔気は、だがしかし確実にシエラの鼓動を急かしている。陸地ではないこの場所で、エルクディアの戦力には期待できない。
 いつだってそうだ。魔物と対峙するとき、圧倒的にただの人間には不利な状況を強いられる。それにも関わらず、自分の護衛には彼がつくという。
 それが安心感と不安を同時に植えつけていることを、シエラはまだ自覚していなかった。

 無理やり彼を押しのけて小さな戦場の前線に出る。抗議の声が上がったが、黙ってそれを聞き流すことにした。ライナもそのことについてはなにも言わず、静かに精神を統一している。
 ゆっくりと歩を進めるたびに、魔気の揺らぎが大きくなった。回廊の曲がり角が見えたところで、後ろにいたシルディに止まった方がいいと忠告され、障害物のないそこを拠点とすることにした。
 ライナが神聖結界を築こうとした瞬間、隣でリースが突然短剣を放つ。

「リース? お前、一体なにを……」

 水の抵抗を受け流すように真っ直ぐに突き進んだ短剣は、古びた石壁の隙間にしっかりと突き刺さった。テュールの放つ光が銀の刃に当たるたび、それは闇を映し出す。

「姿が見えず、奇襲をかけやすいのは相手も同じだ。騎士長がいながら、そんなことにも気づかないとは笑わせる」

 吐き捨てるように言ったリースに、エルクディアはなにも返さない。代わりに抗議しようとして、シエラはその奇妙さにはっとした。
 本人がなにも言わないのに、なぜ自分が文句を言う必要があるのだ。エルクディアがなにも言わなかったのは、シエラやライナが魔気を感知できるからだと推測する。
 そしてそれは、間違ってはいないだろう。

 ――考えあってのことだ。お前が口を挟むな。

 滑り出しそうになっていた言の葉の傲慢さに、羞恥で頬が火照る。
 よくよく短剣を見てみれば、それはこの場からは見えない回廊の先を映す鏡の役割を果たしていた。リースの人を見下したような口調は確かに腹が立つ。だが、彼の言葉にはいくつも矛盾が潜んでいる。
 守る気などない、とかつて彼はシエラに告げた。シエラ達についているのは彼の義務なのだろう。それならば必要以上のことはしなくていいはずだ、とシエラは思う。こうして共に戦意を示す必要などないのではないか、と。
 彼自身を守るためだと言われれば、納得せざるを得ない。だが、それだけではないような気がして仕方がなかった。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、ぞっと肌がざわめいた。神父服の下で粟立った肌が、異質な存在を知らせている。

「少し魔気が強くなってきた。……これは近づいてくる感覚に似ている、と思う」
「そう――ですね、わたしにも僅かに感知できるようになりました。ではそろそろ、結界を張っておきます。心の準備をしておいてください。……シルディ、貴方に言ってるんですよ」
「えっ、僕? あ、ああうん! 怪我しないよう、気をつけてるよ」
「そうしてください。テュールを頼みますね」

 足手まといになることを自覚しているらしいシルディは、シエラから離れたテュールを腕に抱いて微笑んだ。
 王子とは思えない――シエラは一般的な王子の定義をよく知らないが――その態度に、変わった奴だなという印象を受ける。
 ライナがロザリオをしっかりと握り締め、神言を唱え始めた。小声ながらもしっかりとしたそれにより、精霊達が集まってくるのが分かる。

「<神の御許に誓い奉る。盟約者は聖血を授かりしライナ・メイデン。この地に宿る精に乞う――>」

 神聖結界に必要なのは多くの精霊だ。木霊、火霊、水霊、風霊など、様々な精霊達と盟約を結ぶ必要がある。
 すべての精霊と盟約を結ぶことができればより強固で完全な結界が張れるが、種類が極端に偏っていたり、精霊の数そのものが少なければ強度は落ちる。
 ここは水霊で溢れていた。海の中なのだから当然だが、これでは結界に完璧は求められない。



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