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 再び静まり返った彼らは、小魚の群れが目の前を横切ったのを合図にするかのように歩を進めた。しゃく、と足裏に貝殻を踏み砕いた感触が伝わってくる。
 時間を見てシルディがテュールに宝石を与えているので、テュールは相変わらず元気そうだ。指を甘噛みしてくるたびに、シエラはその頭を優しく撫でた。
 どうしようもない愛おしさが込み上げてきて、自然と口元が綻んでいる。
 シエラはそのとき、すぐ隣から優しい眼差しが向けられていることに気づいていなかった。慈しむような眼差しが彼女の体を包み込み、いかようなる穢れからも守ろうとしていることなど、露とも知らなかった。
 だがその代わり、シエラはあることに気づいた。

 ――そして、そのことに抗いようのない恐怖を覚えることとなる。

 いつか必ず訪れる、彼らとの別れ。そのいつかは遠くはない先の話だ。
 そのときに自分は、笑って彼らに最後の挨拶をすることができるのだろうか。
 シエラの心を生まれ育った村が支配する。丘に広がる名も知らぬ花、髪を悪戯に撫でる心地よい風、森から聞こえてくる野鳥達の歌。
 自分はあの村に、なにを残してきたのだろう。母の声も父の声も、すべて鮮明に思い出すことができる。
 いってらっしゃい、シエラ。二人ともそう言って見送ってくれた。泣き出しそうな彼らの顔をそれ以上見ていたくなくて、酒場から逃げ出して丘に立っていたあのとき、カイが探しにきてくれたことも覚えている。
 たくさんの人の声や笑顔が浮かんでくるのに、彼らに掛けた言葉が一つも思い出せない。
 さようなら、と言っただろうか。今までありがとう、ときちんと告げただろうか。
 もう二度と会えないと分かっていたはずだった。分かっていたと思っていた。けれどそれは、思い込んでいただけだったのだ。
 本当はなにも分かっていなかった。――否、分かりたくなかったのだろう。

 理解すれば、受け止めてしまえば、きっと心が砕けてしまっていた。今でもこんなに悲鳴を上げているのに、あの村で事実と向き合ってしまえば、この心はひとたまりもなかった。
 今でさえ認めたくもない、あまりにも残酷な事実。そこには一欠片の優しさもなく、先のない刃でもってシエラを徐々に傷つけていく。
 けれど今ならば、思う。
 あのときどれほど傷ついていたとしても、きちんと別れは告げるべきだったのだと。
 これは後悔だ。取り戻すことのできない時間の中に置き去りにしてきたものは、とても大事なものだったのだと今になってやっと気がついた。
 だからこそ、『いつか』がきたときにはきちんと言わなければいけない。そのときどれほどつらくとも、口にしなければいけない。
 できることなら笑いたいと思う。彼らはいつも、笑顔で自分を迎えてくれたから。

「シエラ、どうした?」

 ほら、こうして絶え間なく優しさを与えてくれる。
 なんでもない、と首を振りかけたシエラの頭に、突如ずきんと刺すような痛みが走った。激痛に耐えかねてシエラの膝が崩れ落ちる。
 完全に倒れる前にエルクディアが彼女の体を支えたが、シエラには自分が立っているのかどうかさえも分からなかった。
 早鐘を打ち出す心臓は、全身の血液をかつてないほどの勢いで循環させようとしている。痛みはこめかみから下り、眼球の奥にまで到達した。
 その刹那、『あの感覚』がシエラを襲う。

「――くっ、はっ……!」
「シエラ? おい、シエラ! どうしたんだ、どこか痛いのか?」
「シエラ、貴方もしかして……」

 荒くなる呼吸の音に、エルクディアの声が重なる。痛いほど駆ける心臓は、悲鳴と呼ぶに相応しい拍動でシエラを苦しめた。
 肩を掴まれているはずなのに、エルクディアの体温はおろか感覚でさえも感じ取ることはできない。
 堅く閉ざしていた瞼を次に押し上げた瞬間、無理やり眼球を引っ張られるような錯覚に陥る。心配そうに縋りつくテュールの灯りは弱々しいというのに、シエラの目は完全に闇を掌握していた。
 どこまでも続く大回廊の先、朽ち果てた花瓶の欠片でさえもが鮮明に見える。
 意識せずとも目が勝手に『なにか』を求めて泳ぎだした。まだその『なにか』は見えない。
 だがこの感覚は、間違いなく――……。

「……まもの、だ」
「ええっ! 嘘、どこにいるの!?」
「落ち着いてください、シルディ! 今わたしが感知できる魔気はありません。魔導師さん、貴方の魔導具の反応は?」
「――ない」

 小さな箱状のものをすぐさま確認したリースが短く答える。彼の手には、すでに何本かの短剣が握られていた。

「ということは、相手はよほど遠くにいるか……よほどの高位か、です。シエラの反応を見る限り――危ない橋を渡ることになりそうですね」

 言いながらライナが聖水を取り出したのが分かった。だんだんと落ち着いてきた心臓と視界に、シエラはようやっと自力で体を支える。
 厳しい表情のエルクディアが視界いっぱいに広がり、彼女はどうすればいいのか分からずに眉根を寄せた。
 ひとまず大きく深呼吸して、肩に置かれたエルクディアの手をそっと外す。



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