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今ライナが使おうとしているのは、己の血を使った簡易かつ高度な結界呪だろう。
聖職者の血は、魔物にとって魔気を増大される最高の珍味だ。だがそれは神言を与えることによって、彼らを決して逃さない呪縛の鎖となる。
同様に、祓魔師が神言を与えた場合は魂を切り裂く刃となるのだ。
ただしそれはかなり体力を消費するものなので、あまり使用しないことがいいとされている。
便利と思われる血の法術も、目測を誤れば大量出血で死が訪れる場合もあるからだ。
しかし、ライナにためらいなどなかった。余裕たっぷりといった風体で微笑む彼女を見て、シエラも安心感を覚えて行く末を見守る。
十分に血液と聖水を混ぜたそれを、ライナは手のひらに溜めてゆっくりと肺に空気を取り込んだ。
「<神の御許に誓い奉る――盟約者は聖血を授かりし、ライナ・メイデン>」
紡ぎ出された神言に、精霊が反応して大気が揺らぐ。
きゅうと赤く染まった唇を弓なりにしならせたライナは、瞬き一つ分の間に聖水を溜めた右手で一線を描いた。薙ぎ払われた軌跡を追うように血を交えた聖水が飛び散り、それは重力に逆らって下に落ちずに上昇する。
「<神の御名の下、この世に宿る精に乞う。悪しきものを拒む力を我に与えよ>」
まるで聖水が霧のように立ち込めたかと思うと、ライナはすかさず胸元で揺れるロザリオを握った。
人差し指で中心に填め込まれたトパーズを撫でるようにしてから、軽くシエラに目配せする。
そして落ち着いた声音で、神言を締めくくった。
「<我と盟約を交わせし大気の精霊よ。罪なき者、我が望む者を守りたまえ>」
神言が完成したのと同時に、ぶわりと体を攫っていくような突風が彼らの間を吹き抜けた。
髪や服を翻され、風塵に瞼を下ろす。一呼吸分置いてそろそろと目を開けてみるが、シエラの目に映る光景はなんら変わりがなかった。
果たして本当に結界が張られているのだろうかと訝って手を伸ばせば、完全に肘が突っ張る前に指先が何かに触れた。
思わず一度手を引き、そしてもう一度静かに腕を伸ばす。
絶えず指先を掠めていく感触は、まさに風のそれだった。一箇所に風を押し固めたようなそれは、壁のようになって彼女を包み込んでいる。
「これは……」
「風の結界です。強度は神聖結界に比べれば劣りますが、直接対峙するのでなければ十分でしょう。我々の気配は風が掻き消してくれますから、しばらくは魔物の目も晦ませることができるはずですよ」
独り言のように呟いたシエラの言葉に、淡く笑んだライナが応えた。
額に浮いた珠のような汗を拭い、髪の間に風を送るために何度か手櫛を入れる。
「わたしにできることは、これくらいですよ姫様。どうなさいますか?」
「愚問だな。……それから、姫と言うな。私の名はシエラだ。それ以外の名を持った覚えはない」
そのぶっきらぼうな態度に、ライナは大きな瞳をさらに大きく開くと、くすくすと笑って乱れた髪を耳に掛けなおした。
シエラよりやや身長の低い彼女は、視線を上に持ち上げると疲れを感じさせない微笑を唇に乗せる。
「ではシエラ、エルクに指示を。彼は貴方の騎士ですから」
「おいライナっ! お前、さすがに呼び捨てはどうかと思……う、ぞ……」
「……どうした?」
「自分の過ちを後悔している暇があるのなら、早くここから去った方が無難ですよ、エルク」
尻すぼみになっていったエルクディアの台詞に、シエラは首を傾げる。
ライナに至っては呆れたような一瞥をくれただけだったが、彼本人は血の気の引く思いをしていた。
ライナに呼び捨て云々、などと偉そうに言える立場ではなかったことを悟ったのだ。彼はすでに神の後継者に食って掛かるような真似をしており、思い切り無礼な真似をしていたような気がする。――事実、暴言ともとれる言葉が彼の口をついて出ていた。
そんな彼に構うことなく、シエラが馬にひょいと跨って手綱を手にした。馬上から冷ややかに見下ろしてくる彼女を見上げ、エルクディアは口端を引きつらせる。
珍しく頭に血が上ってなにも考えずに怒鳴ってしまったが、これからの人生を考えるととんでもないことをしでかしてしまったのは明白だった。
悶々と悩み続ける彼を半ば睨むように見、シエラはため息混じりに口を開く。
「なにをぼさっとしている? ぐずぐずしていると喰われるぞ」
なにに、などと聞きたくはなかった。答えは遠くから聞こえる唸り声ですぐに分かったし、この状況でゆっくりしていることなどできないことはエルクディアにも十分理解できていたから。
「……姫様、お怒りではないのですか?」
いまさら無駄だとは分かってはいても、礼節を重んじてエルクディアは問うてみた。隣では馬に跨りながらライナが笑みを零しているのだが、その意味を今のエルクディアが悟る術などない。
散々無礼な振る舞いをしたのだから、さぞかし怒っているだろうと思われたシエラは心底嫌そうな表情で眉をひそめる。