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「お前、この状況下で喜んでいられるとでも思っているのか? 無駄口を叩いている暇があったらさっさと動け。――ああそれから、姫と呼ぶな。気色悪い」
「……では、シエラ様」
「様もつけなくていい。もういいから、早くしろ!」

 痺れを切らしたように声を張り上げ、シエラは手綱を握る手に力を込めた。はっとしたようにエルクディアは表情を引き締め、馬に近寄るとシエラの後ろに跨る。
 腕を前にして手綱を受け取れば、彼女は面倒くさそうに腕を組み、顎で東の方を指し示した。
 ライナの張った結界があれば、多少魔物の近くを通ったところで大丈夫だと判断したためだ。
 首肯し、彼はぐっと両足に力を入れて馬を前進させた。

「これより東にそれて王都へ向かう! いいか、絶対に遅れをとるな!」

 わぁっと声が波のように伝わって兵士らが了解したのが分かると、エルクディアが一気に馬の速度を速めた。
 馬蹄が地を叩き、草木を掻き分けて進む様は戦場を駆ける様子とさほど変わりがない。一斉に続いてくる隊を振り仰いで確認すると、彼は併走するライナに視線を送った。
 衝撃を減らすために腰を浮かせて駆ける彼らの耳には、ひっきりなしに風の切る音が流れ込んでくる。
 ぱちりとライナと目が合った瞬間、彼女は「今のところ大丈夫です」とエルクディアの心中を悟ったような返答をくれた。
 舌を噛まないよう必死に口を真一文字に結んでいたシエラが、彼女のその言葉に首を傾げる。
 それを汲み取って、ライナが「結界ですよ」と要点のみを短く告げた。
 つまりは、まだ結界が十分保たれているということなのだろう。それに加えて、結界を操る彼女の体力も。
 忘れかけていた痛みはいつの間にか和らいでおり、結界の効力なのだろうとシエラは悟った。
 背後から手綱を捌くエルクディアも、こうして見れば騎士の気迫が感じられる。
 果たしてこんな生活が続くのだろうかと一瞬考えて、シエラはふるりと首を振って否定した。
 こうして逃げ惑う日々はご免だ。折角力があるのだから、戦った方がいいだろう。たとえそれが面倒なことだとしても、背を向けるよりは得策のような気がする。
 ふいに、雑音に混ざってエルクディアの声が聞こえた。小さく顔を後ろに向ければ、彼が何事かを尋ねてくる。
 耳を澄まして、ようやくその声を拾うことができた。

「シエラ、とお呼びしてもいいのですか?」
「私にそれ以外の名はない、と言ったはずだ。お前、その敬語なんとかならないのか? そこの神官の口調も」
「すみません、わたしのこれはもう癖なんですよ。それから、わたしの名前も神官でなく、ライナです」

 ふふ、と悪戯っぽく笑って唇に指を添えたライナは、凄まじい速駆けをしている馬上にいるとは思えないほど滑らかな動作だった。シエラは一度眉間のしわを深くし、それから小さくライナの名を口の中で転がす。
 そんなシエラと同様、エルクディアもシエラの名前をそっと紡いだ。
 音にした瞬間、胸中に広がっていく暖かな感覚はまさに言霊と呼ぶにふさわしいものだった。これが天に一番近しい者の名前かと思うと、自然と笑みが広がっていく。
 途端、こつんと後頭部を胸に預けられ、エルクディアは軽く目を瞠った。
 よくもまぁこの激しい振動の中で腰を落ち着けられるものだ――とエルクディアが感心しているなどとは知らず、シエラは闇の中を見て「もういいぞ」と告げる。
 一瞬何のことだか理解できなかった彼に、彼女はもう一度同じ台詞を繰り返した。

「もういいぞ。なぜかは分からないが、唐突に気配が消えた。もう急がなくていい」
「……え」
「確かに……そうみたいです。潜んでいるというよりも、これは本当に消えたと表現する方が正しいですね」

 馬の速度を落としてライナが辺りの気配を探るが、違和感はなかった。急に掻き消えた魔気に疑念を抱くも、今この場で答えが分かるはずなどない。
 蹄から伝わってくる地面の感触がやわらかくなり、ぬかるんでいるのだということが分かった。
 しかしそんなことはどうでもよくて、ゆっくりと歩を進めながらどうしたものかと考える。 
 シエラも若干不思議そうに闇の向こうを眺めていたが、やがて興味がなくなったらしく、ふぅと小さく息をついて首の骨をぽきりと鳴らした。
 先頭を走る彼らが速度をゆるめたため、後ろをついてくる兵士達の馬の歩みも徐々にゆるめられていく。

「いきなり消える、か……。気になるな。やっぱりライナ、これはユーリに報告した方がいいか?」
「当然です。王都へ飛来していたものとは、少々異なっていたようですから」
「は? でも、ユーリは――」
「……ちょっとエルク。貴方もしかして陛下に言われて、祓魔師を連れてこなかったんですか?」

 う、と口ごもるエルクディアを見てライナが「信じられません!」と声を荒げた。そんな彼女を見ながら、シエラは小さく首を傾げる。
 一体王都へ飛来した魔物とは、なんなのだろうか。

「しんか――ライナ。その王都へ飛来した魔物とは、一体?」
「なんてことはない、低級の魔物です。それこそ聖職者見習いが実習で相手にするような、ね。でも……王都の聖職者だけでは対処できないほどの、大群が先日やってきまして。祓魔師はもちろん、神官も手が放せない状態で。どうしてあんなことが起きたのか……」

 ふるり、とライナは一度首を振ると、苦々しげに唇を噛んだ。先ほど切れた唇の端にこびり付いた、赤黒いものがやけに鮮明に映る。
 流れる景色を横目に、銀髪を揺らしながら彼女は空を仰いだ。

「まったく、陛下もなにを考えていらっしゃるのでしょうか……」

 どこかつらそうに紡ぎだされたその台詞に、シエラは先ほどとは反対方向に首を傾け、この国の王がどのような人物なのかを想像した。
 名前だけは、シエラとて聞いたことがある。国の名を継ぐ最高祓魔師、ユーリ・アスラナ。
 若くして先代の王に認められ、数々の祓魔師試験を突破して玉座へと就いた麗しき青年王。その力は、ぱちんと指を鳴らすだけで低級の魔物を祓うほどだと聞く。
 政治の才にも長け、いざこざのあった近隣諸国とも同盟を結んで今では戦もない。
 皆が皆、口々にかの王を褒め称えるが、傍に仕えているのだろう彼らの口ぶりを聞いていると、どうやら飛び交う噂とは少々ずれた部分もあるらしい。
 森の出口が見え始め、王都の明かりがうっすらと見え始めた辺りから、だんだんとシエラの意識は深淵に飲み込まれていった。
 揺れる馬の背に身を任せ、夢の呼びかけに逆らいもせず瞼を下ろす。
 最後に聞こえた声は、エルクディアの優しい呼びかけだった。



+FIN+
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