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何事かをライナが告げると、シルディは大きく頷いた。にこりと笑ってみせれば、彼女の視線がひたと据えられる。
この丸くて大きな目に映ることができるのが、シルディにとってはなによりの至福に思えた。
「分かってるよ。だからクレメンティアは、大船に乗ったつもりで安心して!」
「貴方の“大船”ほど不安なものはありませんけどね」
「あう……そこは言葉のアヤって言うか、その、えっと、あのー」
「冗談ですよ。これくらいのことでおどおどしていてどうするんですか。まったく……そんな調子だから、あんなことになるんです」
そっぽを向いて放たれた言葉に、シルディはなんと答えるべきか分からなかった。笑いたいような泣きたいような、言葉にできない複雑な感情が入り混じる。
胸に押し寄せてくるそれが顔に表れないよう気をつけながら、ほんの一瞬彼は視線を下げた。
シルディ・ラティエ。
ホーリー王国第三王子のその名は、思う以上に重たい。あの父親でなければ、こうして彼らと共に出歩くこともできなかっただろう。
彼自身、自覚していた。自分は三人の王子の中で最も王に向かず、――最も、現王に似ているのだと。
上の兄二人は優秀だ。だが彼らのどちらかが即位すれば、このホーリーは今のままではいられなくなる。
それが決して良い意味ではないことを、シルディは知っていた。
「せめて長子だったらよかったんだけどね」
「なにを言っているんです? 貴方みたいに一本も二本も抜けているところのある人が、長男なんて務まるはずもないでしょう。貴方には末っ子がお似合いなんですよ」
手厳しいなー、とぼやいてゆっくりと瞼を下ろす。頬を撫でる潮風が妙に心地よかった。
昔一度だけ、シルディはこの風を兄達と感じた記憶がある。それはとても昔で、まだ兄達が笑いかけてくれていた頃の話だ。
『王は妾妃が産んだ第一王子ではなく、正妃の産んだ末の王子に王位を譲るつもりでいる』――そんな噂が宮城に広まる、少し前のこと。
それまで手を繋いで遊んでくれていた兄達は、噂一つで変わってしまった。
だがそれも仕方のないことなのだろう。妾妃の子とはいっても、彼らは現王の血を引く正当な直系男子だ。
王の寵愛を一身に受ける正妃の子だからといって、三男が王位を継ぐのは不満が募って当然だ。一番王に向かないというならば、なおのこと。
シルディはずっと、そう思ってきた。
「ああもう。なぜ貴方みたいな人が、ありきたりな王位継承問題の渦中にいるんでしょうね」
「ほんとだね。でも、ベスティアに比べたら大分マシだよ? 兇手(きょうしゅ)はまだ一回も来たことないし」
最後の一言にライナが眉根を寄せたが、お互いなにも言わなかった。いや、お互い言ってはいけなかったのだ。
踏み込まず、踏み込ませず。絶妙な距離感が二人の名に宿っている。
ほとんど無意識にライナはロザリオに手を伸ばし、中央の法石をそっと撫でる。
冷ややかなトパーズの感触だけが、今の彼女を現実に引き止めていた。
「そーゆーの考えたらさ、アスラナってすっごくいい国だよねー。……でも」
その先はライナも危惧していることだった。ライナだけではない。アスラナを知る者であれば、誰もが一度は抱いたことのある大きな疑問。
それは同時に、誰もが意図的に触れようとはしない疑問である。
「魔物がいなくなって、聖職者の力が必要なくなったら……現アスラナ王は、どうするのかな」
最高祓魔師が玉座に座るという、その理由がこの世からなくなったとき、かの青年王は一体どう動くのだろう。
幸い、ユーリの政治に対して異を唱える者は今のところ目立たない。彼がこのまま王を続けることは十分可能だろうが、問題はそのあとだ。後宮に妃を迎え、自らの子を王とするのか、それとも真に優秀な者を選出するのか――。
どちらにせよ、アスラナが荒波立つことは避けられそうにない。
押し黙ってしまったライナの手を、シルディは苦笑と一緒にそっと握り締めた。
「ごめん。考えなきゃいけないのは、現状と僕の方だよね。どうしよっかな」
「……能天気なこと言ってないで、しっかり継承権もぎ取って下さいよ。ぼやぼやしてるとすぐに追い落とされるんですからね。あのお二人は、貴方と違ってとても優秀でいらっしゃいますから」
「あっははー、笑えないなぁそれ。でも、うん。分かってる。兄様がどれだけすごいのかってことくらいは。でもさ、僕、頑張るよ」
王位なんていらないと、そう思っていたけれど。
「だからさ、待ってて欲しいな。僕が王様になるの、君にはさ」
「期待しないで待っていますよ、シルディ王子」
こうして君が笑ってくれるのなら。
欲しいものができたと、そう声高に叫ぼう。
大衆のための王になれる自信はいまひとつないけれど、それでも逃げずに立ち向かうことくらいはできるから。
「ありがとう。――クレメンティア」