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「満月は明後日の晩だね。ディルートは町全体に水路が引いてあるから、月が水面に映ってとっても綺麗なんだよ。特に満月はね、きらきらしてて、みんながうっとりするんだ」
街中を小さな手漕ぎの舟で移動するほど、ディルートは水路が発達している。
その水面に揺らめく月は大層美しいことだろう。しかし、リースの耳に入ったのは月のことではなく、その前の言葉だった。だが、それについて彼がなにかを問うことはない。
「無駄口を叩く暇があったら舵を取れ。沈没船にする気か?」
「まさか。舵なら今、ちょっと代わってもらってるんだ。だから心配いらないよ。それより僕が心配なのは、君の方だから」
遠ざかろうとしていたリースの足がぴたりと止まる。振り向きざまに向けられた短剣の切っ先を見て、シルディは一瞬瞠目し、苦笑して両手を顔の横まで持ち上げた。
短剣を向ける彼の目が、その行為がただの脅してはないことを物語る。刃の向こうで光るアメジストの双眸は、瞬くこともなくひたとシルディを捕らえていた。
もしこれ以上シルディが口を開くのならば、彼は本気で手にした短剣を振るう気でいる。
「俺は貴様に心配してもらうことも、そんな義理もない。これ以上余計なことをほざくなら殺す」
「やだなぁ、やめてよそんな物騒なこと言うの。僕はただ、君が孤立してるみたいだったから……」
「だから心配した、か? 王子サマは随分と心優しいらしいな」
くっと喉の奥で笑えば、自分でも驚くほど凍てついた声が零れていた。若干表情を強張らせたシルディを見て、リースはいい気味だと腹の底で嘲笑う。
左手を僅かに動かせば、握られた短剣の刃先がきらりと陽光を鋭く弾いた。
「おせっかいは一人で足りてる。お前は邪魔だ」
一瞬だった。
吐き捨てるような台詞と共に投げ放たれた短剣は、寸分の狂いもなく一直線にシルディの頬を掠め、風を切る音と共に彼の髪を数本短くして、海へ吸い込まれるように静かに姿を消した。
どぷり、と僅かに音を立てて消えたそれをリースが惜しむ様子はない。柄についていたサファイアの宝石飾りを思い出し、もったいないと呟いたのはシルディの方だった。
ただしその呟きは声には出されず、彼は懸命にも唇を動かしただけに留める。
「ねえ、おせっかいって誰のこと?」
「……今度はお前が沈みたいのか」
尋ねるのではなく断定の口調に、シルディは呑気に笑って海面を眺め見た。
「多分ホーリーでいっちばん潜水が得意なの、僕だと思うよ? 小さい頃からよく潜ってたから、みんなびっくりするくらい息続くんだー。リースくん、それでもいいならどーぞっ」
やれるものならやってみろ、と抜けた笑顔で言ってのけたシルディは、ゆっくりと進んでいく船の先を見ながら微苦笑を浮かべた。リースの眉間のしわがさらに深くなるが、彼の目には映らない。
殺気立つリースに気づかないふりをして、彼はそっと鼻でため息をついた。
「……ほんとに大丈夫?」
さらさらと零れ落ちる砂時計の中の砂は、決して落ちることをやめはしない。砂が完全に落ちてしまうまで、いつまでも絶えることなく流れ続ける。
それは心鼓にも似ていた。命が尽きるまで時を刻み続ける、神秘の内腑に。
「ねえ、リースくん。明日はなにが起きると思う?」
唐突な質問に返されたのは、殺気混じりの沈黙だ。
「あーあ、ゆっくりディルート観光なんてしてる余裕なさそうだなぁ。折角おいしい紅茶のお店、調べたりしたのに……。でも、全部終わったら案内してあげるね! あ、そうだ。リースくんはなにが好き?」
どこまでも裏のない笑顔が気に入らなくて、リースは無視を決め込もうとした。だが、なによりもぴったりの答えがふと胸に浮かぶ。
ああ、そういうことか。胸中でひっそりと呟いて、彼は己の中の答えを哂った。久しぶりに顔の筋肉を緩め、“笑顔”を作ってやる。
目だけは相変わらずなんの感情も宿すことはできなかったが、頬を上げただけでも上々と言えるだろう。それがどんなものであれ、微笑んだのは本当に久しぶりだった。
シルディの向こう側に、記憶の中にいる影が重なる。
――そなたは、なにが好きかえ?
「独り、だ」
その問いかけへの答えは、“あのとき”とは違っていたけれど。