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「だってさ。行こう、シエラ。ほら、足元気をつけろよ」

 ライナが声をかけてくるのと同じ頃、からからという軽快な音と共に二台の馬車が船のすぐ近くまで寄せられていた。
 見た目はあまり豪華ではないが、掲げられた小旗には人魚を模した王家の紋章が金糸で刺繍されている。しかしシエラの目では、その刺繍を見ることはできなかった。ただ馬車が止まっているな、くらいの認識で彼女は促されるままに長い階段を下り、ようやく地に足をつけて空を見上げることとなったのである。
 空は見事に晴れ渡り、真っ白な雲が一つ二つぷかぷかと島のように浮かんでいる。さんさんと降り注ぐ陽の光を海面が反射し、眩しく瞳を焼いた。

 ――初めての異国。

 この年になるまで村を出たことのなかったシエラにとっては、なによりも新鮮な響きだ。無意識に辺りを見回していたシエラの肩に、エルクディアの手がそっと添えられた。前方を行く三人の祓魔師の背中を眺めながら、馬車へと誘導される。
 そこでやっと、シエラの目に人魚の紋章が映った。
 一人と表するべきか一匹と表するべきか、ともかく一体の人魚は雫型をした涙のような石を両手で包み込んでいる。
 それがあまりにも目を引いて、シエラは背後でリースが舌打ちするのも構わずに足を止めてじいと小旗を眺めていた。

「――その紋章が気に入りましたか、後継者さま」
「誰だ?」
「ああごめんなさい、僕はシルディ。白露宮から皆さんをお迎えに上がりました」

 のんびりした声音が馬車の奥から聞こえたと思ったら、赤い窓掛けをくぐって一人の少年が地面に降り立った。
 身長はそれほど高くなく、むしろ低い方だろう。シエラとあまり目線が変わらないところを見ると、ライナよりも少し高い程度といったところか。
 ふわふわとしたやわらかそうな癖のある髪は金茶で、丸い小動物のような目は漆黒だ。
 どこにでもいそうな平凡な顔立ちで、服装もシャツにズボンという簡素なものだった。

 シルディと名乗った王宮からの使者は、人懐っこい笑みを浮かべて礼をする。
 再びその頭が上げられたとき、彼の視線はもう一台の馬車の前にいたライナに向けられていた。それを追うようにシエラもライナを見るが、彼女がこちらに視線を向ける様子はない。
 だがシルディが彼女に向ける視線はとても穏やかで優しく、慈しむようなそれだった。
 ライナの可愛らしさに惹かれたのだろうか――などと考えていると、後ろから鋭い舌打ちが耳朶を叩く。

「乗るのか乗らないのか、はっきりしろ。邪魔だ」
「おい眼鏡、その言い方は失礼だろ。アスラナの品位を落とす気か?」
「いいんですよ、騎士さん。とろとろしてる僕が悪かったんですから。ええと、じゃあこちらにどうぞ。足元には気をつけてくださいね。それからちょっと揺れる場所がありますから、舌を噛まないように注意してくださいねー」
「申し訳ない、シルディ殿」

 エルクディアが謝罪する間にすっと馬車へ乗り込んだリースを見て、シエラはぎゅうときつく眉根を寄せる。
 シルディは苦笑しながら二人を促し、最後に馬車へ乗り込んでリースの隣に腰掛けた。
 馬車は広々とした四人乗りで、シエラの前にシルディ、エルクディアの前にリースが座っている状態になっている。シルディは戸口を閉め、馭者に出発を告げた。
 すると、がたりという轍が動き出す音がしてゆるやかな振動が足元から伝わってくる。窓掛けを開ければ、テティスの町並みがよく見えた。

「見えます? あの建物がこの町で一番の仕立て屋なんですよ、帽子の。僕も昔っからあそこで仕立ててもらってて……あ、あっちは美術館で、それからあのオレンジ色の屋根のお店が――」

 ぺらぺらとシルディが嬉しそうに町を紹介するのだが、馬車の中に篭る空気は決していいとは言えないものだった。
 それをものともせず喋り続ける彼がほんの少し哀れに思えたのか、エルクディアがそっと声をかける。

「シルディ殿、案内はあとで頼ませてくれないか? 今はシエラも疲れているだろうし、少し休ませてほしいんだ」
「あ、そうだよね。ごめんなさい。じゃあなにかあったらいつでも声をかけてくださいね。じゃあ僕もちょっと寝ようかな……実は昨日から緊張しちゃって、全然寝てないんです」

 くすりと笑って、シルディは頭を壁に預けた。目を閉じる前に、でもすぐに着くんですけどね、と独り言のように呟いて丸い双眸に蓋をする。
 シルディが口を噤んでしまえば、その場に降り立ったのはがたがたと揺れる馬車の音と、地面を叩く馬蹄の音だけだ。
 内部にはしんとした沈黙が訪れ、シエラもリースも腕を組んで窓の外を見たり、己の足先を見たりしていた。誰も口を開こうとはしない。
 景色を眺めていたシエラの隣で、エルクディアが小さく唸る。その音に反応して横を見れば、エルクディアの視線はすうすうと寝息を立てるシルディに注がれていた。
 金茶の髪が馬車の振動を受けるたびに、ふわふわと跳ねるように揺れている。

「どうした?」
「……いや、シルディって名前、どっかで聞いたことあるような気がして」

 「どこだったかなぁ」とこめかみを指で叩きながらエルクディアは零す。
 その様子に一瞬だけリースの視線が投げてよこされたが、彼は小さなため息だけ吐き出してシルディと同じように瞳を閉じてしまった。



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