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 これがアスラナ王国における最高の騎士団の一員で、それもそれを率いる総隊長の目などと誰が思えよう。
 しかしその屈託のない瞳は、一瞬にして冷たい光を放つことをシエラは知っていた。

 神の後継者である彼女を守るためならば、彼はその手を血に染めることを躊躇わない。

 知っているからこそ、ほんの少しその優しい眼差しが怖いとさえ思う。
 彼が戦場において竜と称される所以になった姿を、彼女はまだはっきりとは見ていない。かつて見た姿は魔物との対峙、そして紅茶店の娘であるセルラーシャの髪を切り落としたときのものだ。
 人が人を傷つける、決定的な姿をまだ見たことがない。
 見たくないと、シエラは思う。あの大きくて優しい手が、誰かの命を奪うなどとは考えたくもないのだ。
 もしも、彼が「騎士」としての役目を全うする姿を目撃してしまったら、自分はどうなるのだろうか。
 いつもと同じように、こうして彼が淹れてくれた茶を、彼の隣で飲むことができるのだろうか。
 彼はなにも変わらないはずなのにそこに確かな変化があるような気がして、妙な不安がのしかかる。
 考え込むシエラの耳に、そういえば、というライナの声が届いた。

「あちらに到着してからなんですけど、まずは一度王宮へ向かいます。そこでマルセル国王に拝謁して、同行してきた祓魔師とは別行動――つまりは、アビシュメリナでの探索許可をいただきます。ああそうそう、馬車が二台用意されているようですが、シエラとエルクで乗ってください。私は別の方に乗りますから」
「……分かった。リースはどちらに乗るんだ?」
「そちらの馬車に。陛下がなにをお考えなのかは分かりませんが、常にシエラと共に行動させろと仰いますし……。ですからあとで、彼にも伝えにいくつもりです」

 そうか、と相槌を打ちつつもシエラは胸中が晴れなかった。
 その理由も分からない焦燥を隠すべく、彼女は腕の中のテュールを優しく撫で、ぎゅうと抱きしめた。


+ + +



 ホーリー王国の王都、テティスの港に辿り着いたのは五日後のことだった。
 揺り起こされて着替えを済まし、うつらうつらとしながらも朝食をとったシエラは、もう海の上の滑っていない船に乗っているのだとようやく悟る。大きな窓から見える空は、異国のものだ。

 どくり、と心臓が大きく跳ね上がった。
 初めての海、初めての異国。それは嫌がおうにもシエラの胸を高鳴らせる要因となっていた。
 興味がないと一蹴することはいくらでも可能だったのだが、胸の奥の方で小さく騒ぐ好奇心に気づかないふりをすることはできない。
 しかし何事もなかったのかのように彼女は黙り込み、子供や若い娘に混じって窓に張り付くような真似はしなかった。
 テュールをポーチの中に隠したライナが、三人の祓魔師と話している。
 エルクディアは常に傍らに控えていた。少しでも首を動かせば、夜と同じ色の軍服が視界に入ってくる。なぜいつものように隣に立たないのだと尋ねれば、彼は異国の地だからと答えた。

 シエラ達がこの船から下りるのは、一番最後だ。
 後ろからの刺客に狙われないようにするためでもあったし、これから王宮へと向かうのを尾行されないようにするためでもあった。着々と客が降りていく様を甲板の上から見下ろしていたシエラは、不意に聞こえた靴音に首だけで振り向く。
 そこにはライナでも船員でもなく、リヴァース学園の漆黒の制服を纏ったリースが、斜に構えて壁に背を預けていた。
 灰色の髪の中に一房だけ血のように赤い髪が揺れており、潮風に煽られるそれが時折彼の眼鏡の淵を叩く。薄いガラスの向こうからシエラ達を見据えるのは、深い紫水晶の双眸だ。

「ラヴァリルと違って、随分と非協力的なんだな」
「…………」

 エルクディアの嫌味に、リースはちらと視線を向けただけで答えない。
 エルクディアの方もそれ以上会話を続けようとは思っていなかったらしく、元通りにシエラへと意識を向けてリースなどそこにはいないかのように振舞った。
 シエラの知る限り、エルクディアは誰に対してでも礼儀を守り、友好的だ。むやみやたらに喧嘩を売るような人物ではない。
 それを言うなればライナもそうなのだが、この二人はリースに対して不信感を隠そうとしない。
 もともとリースは誰も寄せ付けようとしないが、エルクディアやライナのこの反応はシエラからしてみれば意外だった。とはいえ、シエラ自身リースを苦手としているところがあるので口を出すことなどできないが。

 そのままふうと息をついてテティスの町並みを眺める。港は活気付いており、多くの船乗り達が行き来していた。観光客や国民を迎える馬車があちこちから出ており、喉を潤す果物を売る店が近くに何軒かある。
 港を出れば、そこは優しい色合いの建物がぽつぽつと並んだのどかな町のようだ。中央に白亜の宮殿がどんと構えている。さすがは白露宮と呼ばれるだけの白さだ。
 多くの吟遊詩人がその白さをユニコーンの鬣のようだと謳い、各国に伝え歩いているのも十分に頷ける。
 アスラナ王国の王都クラウディオと比較すれば小さな町だったが、とても綺麗な印象を受けた。一言で表現するのならば、素朴な町だ。
 時の流れが緩やかになったかのように感じさせるこの雰囲気は、どことなくリーディング村を髣髴とさせた。

「シエラ、エルク! 皆さんもう降りられたそうです。わたし達も行きましょう」



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