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「たっく、一体どうしたんだ? さっきの子供にはなんの悪意だってなかったぞ」
「……だろうな」
「だったらどうして……」
「別にどうだって構わないだろう。もういい、さっさと部屋に戻るぞ。潮で髪がべたついて気持ち悪い」
「はいはい。了解しましたよ、お姫様」

 シエラの拳が再びエルクディアに繰り出された。が、ぱしんと肌がぶつかり合う軽い音とともに、彼女の拳は受け止められる。それを悔しげに振り払って踵を返し、彼女はずかずかと船内を大股で進んだ。
 足音を吸収する絨毯を踏みしめるように乱暴に歩いていたら、前方の曲がり角から見慣れた人物が歩いてくるのを確認できた。
 白い服、揺れる銀の髪に柔和な笑み。腰に付けられたポーチから飛び出た大きな水晶のクラスターは、決して飾りなどではない。伝説の竜、時渡りの竜の尾だ。
 存在を内密にするために、テュールはこうして姿を隠している。
 シエラ達を確認して小走りにやってきたライナが、すれ違う途中に肩をぶつけた船員に謝っていた。そして再び彼女の視線がこちらに向けられたとき、シエラが彼女の名前を紡ぐ。

「こちらにいたんですか、二人とも。船旅は長くありませんけど、向こうに着いてからは長くなります。ゆっくり休んでいてくださいね、と言いませんでしたか?」
「ああそういえば、そんなことも言っていたな」
「もう、シエラったら……。エルク、貴方もしっかりしてください。体調管理も護衛の一つですよ」
「あー……悪い。それで、そっちの話はどうなったんだ?」
「ええと……とりあえず、部屋に行ってから話しませんか? どうせわたし達、一間続きの特別室ですから」

 ころころと笑ってライナが首をすくめる。ユーリによって用意された一等室の中でも特別な部屋へと向かいながら、三人は場をもたせるための他愛もない話をした。
 「初めて見た海はどうですか」とライナがシエラに問えば、彼女は「別に」と答える。するとエルクディアが「初めて海を見たのは六歳の頃だった」と語って、彼の師匠であるオーギュストとの思い出話に発展しかけた頃だ。
 ようやく人で賑わう二等室、三等室の界隈から抜け、身分の高い許された者しか足を踏み入れることのできない一等室の並ぶ廊下へ差し掛かった。

 その一番奥、リースが休む部屋の隣の部屋が、シエラ達に用意された船室だ。
 重厚な鍵をライナが取り出し、鍵穴に差し込んで取っ手を回す。がちゃりと音がして扉が開くと、その向こうには船の中とは思えないほど広々とした空間が広がっていた。
 中へ進めば、大きなソファが二つ、ローテーブルを挟んで向かい合わせに置かれている。所々に置かれた彫刻や絵画などの美術品は、シエラの目からは価値など分からなかった。
 だが、隣を歩くエルクディアの表情を見ていると、それらが高級品であることが分かる。

 ライナが扉を閉め、鍵をかけてから、ポーチにいたテュールを解放した。蓋が開いた瞬間ばっと飛び出してきた小さな竜は、美しい体を思い切り伸ばして広々とした空間を楽しむように滑空する。
 その鱗がきらきらと光を反射させるたびにシエラは表情をやわらかくし、ソファに身を沈めて歌うようにテュールの名を呼んだ。
 ぴくり、と反応したテュールはぱたぱたと皮膜の翼を羽ばたかせて腕の中へ舞い降りる。

「ユーリも随分と大きな部屋を手配したんだな。狭くても構わないだろうに」
「シエラが窮屈な思いをするといけませんから。それに、いざというときのためには広い方がなにかと便利なんですよ」
「便利?」
「ほら、例えば……例えばですよ? 敵襲があったとしても、エルクが剣を振るいやすいでしょう? それだけ身を守る空間もあるということですし、テュールも隠しやすいんです」

 確かにここで誰かと剣を交えることになったとしても、十分な広さがある。大きな花瓶や戸棚などを見る限り、テュールも隠れやすいことは間違いなかった。そこまで考えられていたのか、と感心したシエラの鼻に紅茶の香りが届く。
 エルクディアは湯気の立つカップを三つ持ち、ローテーブルの上にそっと置いた。
 どうやらライナと話している間に淹れてきたらしい。

「ま、アスラナ王国の紋章がでかでかと掲げられた船に喧嘩売るような船、なかなかいないだろうけどな。この辺りを騒がしてる海賊だって、この船がただの豪華客船じゃないってことぐらい分かるだろ」
「そうとも言えませんよ? プルーアス帝国の近くではこの船に引けを取らない大船が被害にあったそうですから。……でも、エルクの言うとおり、この船を襲う方はよほどの命知らずなんでしょうね」

 出されたカップに手を伸ばしてライナは口をつけた。それに倣ってシエラも紅茶を喉に流し入れる。
 すっと胃に落ちていく香りは爽やかで、十分に舌を楽しませてくれる味だった。
 なにをやらせてもある程度器用にこなせるこの男は、茶を淹れることも得意としているらしい。
 自分のカップに口をつけて目だけで「どうした」と尋ねてくるエルクディアに向かって、シエラはふんと鼻を鳴らして返事をした。きょとんとした新緑の双眸は、幼い子供のようにさえ見える。
 


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