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「……エルク。行くぞ」
「え? ――ちょ、おいっ!」

 俯いたシエラの細腕が、エルクディアの軍服の裾を強く引いた。そのまま腕を引き寄せ、半ば抱きかかえるようにして彼女は足早にその場から去ろうと踵を返す。
 少年の質問に答えぬまま立ち去ろうとしている彼女に、エルクディアが疑問をぶつけようとしたのだが、喉元までせり上がってきた言葉は直前で逆流していった。
 自分の腕を抱きすくめてずんずんと進むシエラの顔を見てしまったのだ。蒼い髪の間からちらりと見えたその表情はとても痛々しげで、ひどくつらそうだった。
 心なしか腕も震えているような気がして、エルクディアは黙って彼女に歩調を合わせる。
 首だけで振り返って少年を見れば、彼は期限を害した様子もなく、屈託のない笑みを浮かべて大きく手を振っていた。エルクディアも手を振り返すが、それと同時にシエラの小さな舌打ちが鼓膜を叩く。

 かんかんと甲高く響き渡る二人分の足音を数え、しばらく経った頃だ。すでに少年の姿は見えないところまでやってきたのだが、シエラはまだどこかへ行こうとする。
 逃げようとする、と表現した方がぴったりのそれに、きゅうと胸が締め付けられるような気がした。

「……シエラ」

 優しく呼びかけるが、返事はない。

「シエラ」

 二度目も同じことだった。彼女はまるでエルクディアの言葉など届いていないかのように、ただひたすら歩き続ける。
 船内の廊下の突き当たりに差し掛かったところで、エルクディアがそっと彼女の拘束から腕を引き抜いた。
 そこでようやく、彼女ははたと立ち止まる。薄い肩がびくついたかと思ったら、猫のような双眸が不安げに揺れてエルクディアを見上げてきた。
 彼女を落ち着かせるように、エルクディアがそっと手を伸ばす。
 そして彼は、華奢な体をそっと抱きしめた。

「大丈夫、なにも怖くない。心配しなくていい、俺がここにいるから」

 力を入れぬように優しく抱き寄せて、左手で何度も背中を叩いてやった。そして空いた右手で絹よりも上品な蒼い髪を撫でれば、安堵したような小さなため息が肩口に寄せられた。
 少し胸元が苦しく感じられるのは、彼女が軍服を握り締めているからなのだろう。
 その苦しさが彼女の気持ちを代弁しているようで、やるせない気持ちになる。大丈夫、大丈夫、と根拠などどこにもない言葉を繰り返し、エルクディアは彼女の頭を撫で続けた。

 少しでも不安が和らげばいいと、切に願いながら。

 その光景は他者から見れば、恋人同士の戯れに見えただろう。一枚の絵画のように釣り合いの取れた二人の美貌は、筆舌に尽くしがたい。
 豪華な装飾の施された船内ですら、なお輝きを増して浮いて見える二人の男女は、周りの視線を集めずにはいられなかった。
 エルクディアが向けられるそれに気づくも、腕の中にいるシエラはぴくりともしない。もう心中で五十は数えただろう。おそらく、そろそろ百を越える。
 船員がちらちらと好奇の目で見てくるのを、その間エルクディアはきつく睨み据えてあしらわなければならなかった。
 人の目からシエラを隠すようにさり気なく立ち位置を変え、蒼い髪を見えないようにそっと背中にまとめて流してやる。全体的に細いため、シエラの体はなんなくエルクディアの体に隠れたが、それでもやはり彼女特有の髪だけは隠しきれなかった。

 顔など見えなくても、髪色を見ればそれが神の後継者であると分かってしまうのだ。そしてその傍らにいる騎士が、王都騎士団の者であることもすぐに知られてしまう。
 城の者ならば別に構わないが、これは他国へ向かう船の中だ。乗客は高貴な身分の者が多いが、船員は皆、優秀な能力者が集められている。実力主義を貫くユーリの考えとしては当然のことだったが、この中には平民だっているのだ。
 おいそれと妙な噂を流されては、誰よりもシエラが困ることになる。それだけは避けたいのだが、今のこの状況ではそうも言ってられなかった。

「シエラ、どうした?」

 問いかけるのが後になってしまったが、そろそろ落ち着いてきた頃合だろうと踏んで尋ねた。ぽん、と肩を叩いて僅かに体を離す。相変わらず胸元はきつく握り締められ、幾本ものしわが寄っていたがそんなものは気にならなかった。
 俯いたままの小さな顔を両手で包み込むようにして上げれば、虚ろだった瞳がはっきりとした光を宿す。

「……エルク?」
「ん?」
「――っ、離せ馬鹿者! いつまで引っ付いている気だ! 変態破廉恥桃色男!!」
「なっ……!」

 どすり、とエルクディアの脇腹に鈍い感覚が叩き込まれた。そのまま崩れ落ちるような無様な真似はしないものの、油断していた折の痛恨の一撃は鍛えている騎士でさえも一瞬言葉を失う威力を持っている。
 顔に朱を上らせて毛を逆立てる猫のように怒りを露わにするシエラを見下ろして、あまりの理不尽さにエルクディアは嘆息した。殴られた脇腹をさすりながら、大分距離を開けている彼女をちらと見やる。
 先ほどまでの弱弱しさからは一変し、金の双眸は活力に溢れていて、真っ直ぐに立つ姿は凛として美しい。
 それでこそシエラだと思って安心するも、なんとなく納得いかない気もした。

 ――それにしても、後半の暴言は一体どこで覚えてきたのだろう。



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