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 それが威嚇によるものだとは誰が言わずとも分かっていたが、小さな子供が怒って泣いたような瞳だったものだから、ついつい気が緩んでしまった。風霊に傾けていた意識が削がれた途端、時渡りの竜を押さえ込んでいた風が掻き消える。己の失態を後悔するよりも先に、竜の尾の先が燃えるような深紅の光を放ち始めた。

 危険だと本能が告げている。
 ぐわりと大きく開けられたあぎとは、ひゅうと音を立てて冷え切った空気を吸い込んだ。
 そして――

「危ないシエラっ!」

 小さな体躯を浮かび上がらせた小さな竜が、開いたままの口からゴウッという低い唸りと共に灼熱の炎を吐き出した。
 咄嗟に顔を腕で庇ったが、そのシエラを覆うように瞬時にエルクディアが抱き締めてくる。逞しい腕の中にライナと共に包まれているにもかかわらず、シエラの閉ざした瞼の奥に強い光が差し込んできた。
 けれど、いつまで経っても襲ってくるはずの熱とそれに伴う痛みは、毛の先ほども感じられない。
 「あれ?」とエルクディアが呟くのと、ライナが絶叫するのとはほぼ同時だった。鼓膜が破れるのではないかと懸念するほどの大絶叫のあと、ライナはエルクディアを突き飛ばすように身を離し、闇夜の中脱兎の如く逃げる小さな竜の後姿を見つけて大きく舌打ちした。城内城下問わず、彼女の神聖さを崇拝している人物らには見せられない光景だ。
 深紅に揺れる光が段々と遠くなり、それはラジュア山の方へと吸い込まれるようにして消えていく。
 完全に逃げられてしまったが、正体は判明した。城に戻って報告すれば、これで今回の仕事は終わりだろう。相手は魔物ではなかったのだし、もうこれ以上自分達がすることはなにもない。そう思っていたのに、どうやらライナは同じ考えではないらしい。
 どこか苛立たしげに地面に転がったランプを拾い上げたライナは、竜の消えていった山を溜息混じりに眺めていた。空になった聖水の瓶をポーチに戻した彼女は、ランプをシエラに預けると頬にかかった銀髪を払い除ける。緩慢な所作が、彼女の心中を表しているようだった。

「少し戻って、隣町まで行ってきます。エルクはシエラのこと、お願いしますね」
「隣町まで? なにしに行くんだ?」
「少し買い物を。伝説によると、時渡りの竜は非常に宝石を好むようです。王都まで戻る時間はありませんから、そこで買ってきます。道中で宝石商に出会えたらいいんですけど……」
「ちょっと待て、今から行くつもりか? 危なすぎるだろ。俺も一緒に、」
「いいえ。結構です。貴方はシエラの傍にいてください」

 大きな川を一本渡った先に、少し大きめの町があった。マフスト村に来る途中、そこで少し馬を休めたのでよく覚えている。王都に比べれば随分と小さな町だが、それでも確か宝石を売っている露店はあったはずだ。 しかし、この時間からその町に向かったとしても、向こうに着くのは夜明け前だろう。往復で朝には戻ってこれるとしても、真夜中にたった一人で山道を出歩くのは危険すぎやしないだろうか。
 シエラとエルクディアが二人揃って顔をしかめたのを見て、ライナはくすくすと笑った。

「もしもなにかあったとき、わたしでは自分の身を護るのが精一杯です。でも貴方は、違うでしょう?」
「いや、まあ確かにそうだけど……」
「心配してくれるのは嬉しいんですけど、自分の仕事を忘れないでください。エルクはわたしではなく、シエラの護衛なんですからね」
「だとしても、別に今から行かなくてもいいだろ?」

 援護するようにシエラも頷いたのだが、ライナは微笑むだけで意見を曲げそうにない。

「……分かった。でも十分に気をつけろよ。なにがあるか分からないんだから」
「言われなくてもそのつもりです」

 これ以上は言っても無駄だと判断したのか、エルクディアは肩を落としてそう言った。夜の山がどれほど危険か、彼は知らないのだろうか。
 どうにかして止められないかと思考を巡らせるが、上手い言葉が出てこない。踵を返しかけたライナに向かって、シエラはなんとか捻り出した疑問を投げかけた。

「なぜ、このまま放っておいてはいけないんだ?」

 カボチャ畑の被害が問題だというのなら、幻獣さえも近寄れないほどの結界を施せばいいのではないだろうか。
 そう続けて告げたシエラの頭をライナは優しく撫で、「でも」と笑う。彼女の優秀な頭はこの質問も予想していたらしく、瞬時に答えを出してくれていたようだ。

「基本的に幻獣は、人目につかない場所で生活しています。それはシエラも知っていますよね?」
「ああ」
「その幻獣が人里に、それも、頻繁に現れるようになった。これは幻獣にとっても人間にとっても、あまりよい環境とは言えません。いつ幻獣を狙った魔物や人間が現れるとも知れませんし、それに……」

 ジジ、と、ランプの油が切なげに音を立てた。

「先ほどの幻獣は、十中八九、時渡りの竜でしょう。伝説が関係なくても、竜は狙われやすい生き物です。ですから見つけた場合は、保護するのが暗黙の了解なんですよ。少なくともアスラナでは。……まあ、保護できるような大きさの竜や、弱った竜が対象ですけど」

 そんな竜を保護し、そして、自らが人手を離れていくのを待つ。元々彼らは賢い生き物だから、人間と開けなければならない距離を本能的に知っている。だから人に慣れてしまった幻獣も、いずれは自らの世界に還っていく。人間達は、彼らがどこで生活しているのかを知らない。
 誰も足を踏み入れたことのない山奥か、深い海の底か――それとも、他に幻獣達の暮らす世界があるのか。


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