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 普段は優しい漆黒の瞳はどこかいじけたようにシエラを映し、そして再び前を向く。
 そんなニコラの様子を見て、馬車の中からシエラがぽつりと言葉を漏らした。

「その馬、私が嫌いなんだろう」
「え?」
「先ほどからちらちらと私を見ては、不愉快そうに鼻を鳴らしているが」
「ニコラが貴方を? エルク、ニコラって人見知りしましたか?」
「いや、どちらかと言えば人懐っこい方なんだが……。ニコラー、シエラは大事な俺の主なんだぞー?」

 「だからよ」というニコラの心の声は、人間達には届くはずもない。複雑な乙女心を誰一人として理解できぬまま、時間は過ぎていく。
 少し強い風が馬車を揺らしたそのとき、ぴくりとニコラの耳が動いた。大きな目が澄んだ空へと向けられ、真っ白な雲が浮かぶそこをただじっと見つめている。
 ゆっくりとその視線が大きな木の上に移り、がさがさと揺れる枝を捉えたことに、エルクディア達が気づくことはなかった。
 ニコラはとても賢い馬だ。
 戦場を駆ける際は主であるエルクディアが戦いやすいよう、そして傷を負うことがないように気を配りながら、馬蹄を踏み鳴らす。もちろん彼が指示する走り方が最優先だが、騎馬戦に夢中になっているときはニコラがその判断を任される。
 落ち着いた性格で、旅先で狭い小屋に入れられたときも癇癪を起こすことなく、じっと主の声がかかるのを待っている。エルクディアがどう動きたいのかを的確に読み取り、そして俊敏な動作のできる名馬。それがニコラだ。
 人の感情やあらゆる出来事に敏感な彼女は雨が降り出す前には決まって、ブラッシングの際にエルクディアの右肩を三回鼻先でつつく。彼の心が怒りや焦り、不安に苛まれているとき、彼女は頬をぺろりと舐める。
 元々動物は異なる気配に敏感だ。だからこそ、なのだろうか。

 彼女がさざめく緑の中に、異なるなにかを見つけたのは。


+ + +



 何度時が廻ろうとも、必ずまた貴女のもとに。


+ + +



 静かな空間に、長身の男の影が二つ。
 窓からはさんさんと眩しいくらいの光が差し込むというのに、その部屋の窓には厚いカーテンがきっちりと引かれ、僅かに漏れる光が両者の面立ちを浮かび上がらせていた。
 一人はゆったりと椅子に腰掛け、もう一人はその傍らに片膝をついて控えている。自慢の銀髪を後ろに払いながら、座っている男がうっすらと唇を開いた。
 吐息と共に零れたのは溜息だ。
 それを音として拾った頬に傷を持つ男が、顔を上げた。「どうなさいました」と問いかければ、銀髪の男は驚くほど冷たい声音で、「悪戯が過ぎる猫にも困ったものだね」と同意を求めるように言ってくる。
 問いかけられた男は聡明であったが、あまりに抽象的なその言葉に首をもたげた。
 そしてしばらくして、マフスト村に出没しているカボチャ荒しのことかと考える。しかし猫がカボチャ畑を手当たり次第に荒らすなど、聞いたことがない。
 一人で静かに悩んでいたところ、銀髪の男がくつくつと喉の奥で笑い、しゅるりと衣擦れの音を立てて椅子から立ち上がった。彼も言わずにそのまま大きな窓へと近づき、分厚いカーテンを勢いよく跳ね除けた。しゃっという軽やかな音が鼓膜を震わせるよりも早く、陽光が容赦なく瞳を刺激する。
 眩しさに目を細めながら銀髪の男は一度大きく伸びをして、その身をくるりと翻した。
 逆光でその表情は確認できない。黙って言葉を待っていると、銀髪の男は僅かな笑みを口元に乗せ、言った。

「オリヴィエ。君に頼みたいことがある」
「なんなりと」
「魔導師側の状況を探ってきてほしい。……情報収集は八番隊リーヴラの方が得意とは聞くが、任せても構わないかい?」
「御意。ですが陛下、具体的にはどのようなことを?」

 銀髪の男――アスラナ王国を統べる国王、ユーリは少し苦笑して眉尻を下げ、窓枠に手をついてもたれかかった。
 「君は少し真面目すぎるよ」笑いながらそう言われたが、オリヴィエは眉一筋すら動かさず、彼の前にかしずいたままだ。絶対の存在からの命を受け、それを遂行しようとする強い意志。それが悪いとは思わない。
 以前、意地悪く訊ねられたことがある。「もしもエルクディアとこの国の絶対者である自分が同時に正反対の命を下したら、一体どちらの命を優先するのか」、と。
 口にはしなかったが、そんなものは愚問でしかなかった。騎士は仕える主がいてこそのものだ。王都騎士団の騎士は個々に護るべき主を持っていたとしても、その腰に携えた剣が契約しているのは、アスラナ王ただ一人。なにを前に誓いを立てたか。それを考えれば、自ずと答えは見えてくる。
 窓の外を見つめるユーリは、遠くに見える城下町でも見下ろしているのだろうか。優雅な所作で指先が唇をなぞったのは、なにか言葉を呑み込んだ証だろうか。黙ってじっと見上げていると、ばちっと音が鳴りそうなほど綺麗に目が合った。無礼を詫びて頭を下げる。

「具台的には、リヴァース学園の裏側――とでも言おうか。それを探ってきてほしい。もしあるなら、の話だけどね。なければそれで構わない。だが、急に魔導師を派遣してきた理由がいまいち納得できないのだよ」
「学園上層部の企み、ですか?」
「まぁそういうことだね。それと、“罪禍の聖人”についても調べておいてくれるかな」

 罪禍の聖人――そうユーリが言葉に出した途端、オリヴィエの肩が小さく跳ねた。
 あまりそういった話に詳しくはないオリヴィエでも知っている。この国に仕えることになって、その方面の知識も頭に入れるようにしていた。
 脳裏に浮かんだ影に、まさかという思いが湧き上がってくる。



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