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 目を覚ましてからまず最初にすることは、水を飲むことだ。
 シエラは腫れぼったい瞼を眠そうに擦りながら時間をかけて起き上がり、ぼーっとした状態のまま用意されたグラスに手を伸ばした。両手でグラスを掴んだまま、しばらくなにもせずに船を漕ぐ。
 朝は苦手だ。
 いくらか時間が経ち、外を飛び回る小鳥の声がはっきりと耳に入ってきてからようやく、彼女は水を口に含んだ。

「……ん?」

 ほどよく冷えた水が喉を滑る。一口嚥下して、シエラは首を傾げた。
 鼻に抜けたかすかな香りが、なにかに似ている。ここの侍女が気を利かせて水になにかを浮かべることがあるから、今回のもそれなのだろう。レモンを浮かべたものがシエラの気に入りだったが、これは一体なんだろうか。
 ガラス製の水差しを覗き込むと、光を弾く水面に数枚の赤い花びらが浮かんでいた。
 ああ、薔薇だったのか。すっきりとした味と香りは起き抜けにちょうどいいものであったが、こんな贅沢な花をよく浮かべようと思ったものだ。
 嘘かまことか、青年王は風呂にまで花を入れると聞くが――いや、考えるのはよそう。
 貴族の間では普通なのかもしれないと納得して、口うるさい世話役がやってくる前に――と、シエラは支度を済ませて部屋を出た。


 廊下にも飾られた薔薇を見て、昨夜の騒ぎを思い出した。侵入者は見つかったのだろうか。ふあ、と欠伸を噛み殺す。
 そういえば、こうして朝から行動するのは珍しい気がする。「結局、今日は来なかったな」エルクディアの部屋へと繋がる扉の前で少しの間待ってはみたものの、焦れたようなノックも呆れたようなため息も、今朝は聞こえることがなかった。
 普段ならばしつこいほどに起こしに来るというのに、不思議な日もあるものだ。
 すれ違う侍女や兵士らに適当に挨拶を返しながら、食堂を目指す。
 差し込む日光を、漆黒の神父服がきらりと反射させた。特殊な神言を練り込んで織られた布地は、光を当てると僅かにきらりと輝く。着慣れてきたと感じているのに、未だに神父服は綺麗なままだ。それが示す意味に気づいて、小さく舌を打つ。
 これがぼろぼろになるくらい戦える日は、来るのだろうか。
 傷だらけになってまで世界を救おうと考えるその日が、来るのだろうか。
 シエラは自問して、そして首を横に振った。出てきた答えは、「分からない」だ。

 生きたいと願う。
 傷つきたくないと望む。
 けれどやはり、護りたいものはある。

 なにかを得るためになにかを捨てなければならないのだとすれば、それは自由だろうか。それとも、感情だろうか。
 こうして変わりのない朝を迎えることが、どれほど幸せなのかということを実感し切れていないシエラにとって、この問いは至極残酷なものでもあった。
 皮肉なものだ。闇を祓う能力を示す服が、その闇を切り取った色だなんて。光の象徴である白であったなら――と考えたところで、シエラは瞬いた。
 ライナはどうしたのだろう。昨夜、変な貴族に絡まれて以来、姿を見ていない。
 彼女も忙しいから、仕方がないのかもしれないが――。

「聖職者、か……」

 救世主だと言われる神の後継者を忌む者も、世の中には存在する。
 大半の人々が敬う聖職者を心底嫌う者が、この世界には少なくないのだ。
 聖職者と魔導師。対立する二つの組織は、目的を同じとしているのにも関わらず、手を取り合おうとはしてこなかった。世界最大を誇るアスラナ王国の主権を聖職者が握ったときから、さらに亀裂は広がったようにも感じられる。

 聖職者は先天的なもので、魔導師は後天的なものだ。
 選ばれた者の立場が上だという考えが浸透してしまっている今、そのことに不満を抱く者がいるとしても、なんら不思議ではない。
 シエラ自身、それはここ最近の学習と、実際彼女に突き刺さる視線によってそれを実感していた。
 城下に行けば、歓迎してくれる者がほとんどだ。だからこそ、その中に混じる怨嗟の念は隠せない。浮き彫りになったその冷たく恐ろしい感情は、容赦なくシエラを射抜く。
 ぞくりと身震いして視線をそちらに向ければ、そう年も変わらないだろう少年少女が疎ましそうにこちらを睨みつけている。そしてその者達の大抵が、ラヴァリルやリースと同じ服を身に纏っていた。

「……一緒、だろうに」

 魔物がいなくなった世界で、平和に過ごすこと。それが双方の目的であるのに、と、シエラは常々疑問に思ってきた。
 同じ目的そのものが、対立の原因かもしれないと、ユーリが言っていた。
 目的が同じだからこそ、立場の違いに不満が生じる。
 目的が同じだからこそ、やり方の違いに疑念が生じる。

 「自分と異なるものを受け入れられない、人間の悪い癖だね」そう言って青年王は苦笑した。



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